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Domenico Scarlatti
1685年10月26日 – 1757年7月23日(71歳没)
イタリアのナポリ出身、スペインのマドリードで没した作曲家です。
同年にJ.S.バッハ、ヘンデルのバロック時代の代表的作曲家が生まれています。
年表
1685年
ドメニコは有名な作曲家であるアレッサンドロ・スカルラッティの子として、10人兄弟の6番目の子としてナポリに生まれる。
1701年 (15歳~16歳)
ナポリの教会付きの、作曲家兼オルガン奏者に15歳で就任。
父の命令によって1705年にヴェネツィアに移住しました。
1709年 (24歳)
ローマに住み、同地に当時亡命していたポーランド王妃マリー・カジミールの音楽監督に就任。
また、サン・ピエトロ大聖堂のジュリア礼拝堂で働き、1714年末に音楽監督のトンマーゾ・バイが没すると、その後を引き継ぎます。
チェンバロの勝負は両者引き分けだと感じたそうですが、オルガンの勝負ではスカルラッティが先にヘンデルの演奏を聴いただけで自分の負けを認めたという逸話が語り継がれています。※この逸話に関する重要な資料は見つかっていません。
1714年 (30歳)
ポルトガル大使のフォンテス侯爵と知り合ったことが機縁で、1719年ポルトガル王ジョアン5世はスカルラッティを王室礼拝堂の音楽監督に任命。
その後スカルラッティは1719年11月29日にリスボンに到着。
1728年 (44歳)
スカルラッティはイタリアで16歳のマリア・カタリーナ・ジェンティリと結婚。
翌年マドリードへ移住。
1738年 (54歳)
ジョアン5世はスカルラッティをサンティアゴ騎士団の騎士に叙した。
スカルラッティは最初のソナタ集「Essercizi per gravicembalo」(チェンバロ練習曲集、30曲。K.1-30)を出版。
ジョアン5世に献呈しました。
スカルラッティの名声はこの曲集によってヨーロッパ中に広がることになります。
最終曲が有名な「猫のフーガ」。
この曲集はスカルラッティの生前に出版された唯一のソナタ集でした。
1757年 (71歳)にマドリードで没した。
彼の子孫一族は今日でもスペインで生活しています。
4種類の作品管理番号
ロンゴ番号
20世紀初頭にアレッサンドロ・ロンゴによってつけられた管理番号で表記は[L]
カークパトリック番号
1953年のラルフ・カークパトリックの著書によるカークパトリック管理番号で表記は(K. または Kk.)
ペステッリ番号
1967年のジョルジョ・ペステッリの著書によるペステッリ管理番号で表記は(P.)
ファディー二番号
音楽学者で鍵盤楽器奏者のエミリア・ファディーニがつけたファディーニ管理番号で表記は(F.)
編集長オススメのスカルラッティのアルバム作品

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服部 洸太郎
音大を卒業後ピアニストとして活動。
自身のピアノトリオで活動後北欧スウェーデンにてシンガーアーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツへ渡りケルンにてAchim Tangと共に作品制作。
帰国後、金田式電流伝送DC録音の名手:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入りし、録音エンジニアとしての活動開始。
独立後、音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現在はKotaro Studioに統合)」を立ち上げ、タンゴやクラシックなどのアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、介護で使えるプログラムをM5Stackを使って自作。
株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにてアルゼンチンタンゴをはじめとした民族音楽に関する文化の研究、ピアノ音響、さらに432hz周波数を使った癒しのサウンドを研究中。
スタジオでは「誰かのためにただここに在る」をコンセプトに、誰がいつ訪れても安心感が得られる場所、サイトを模索中。