Johann Sebastian Bach

ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(Johann Sebastian Bach, 1685年3月31日(ユリウス暦1685年3月21日) – 1750年7月28日)
18世紀のドイツで活躍した作曲家・音楽家です。
日本の音楽教育では「音楽の父」と称されています。
俗に言うドイツ3Bと言われる作曲家の一人です。
アイゼナハの町楽師であり、ルター派音楽家のヨハン・アンブロジウス・バッハの8人兄弟の末子として生まれました。
バッハが9歳の時に母が死去しています。
父は再婚したもののバッハが10歳の時に死去しました。
バッハはオールドルフの兄ヨハン・クリストフの家に引き取られて勉学に励みました。
年表
1703年(18歳)
ヴァイマルの宮廷楽団に就職。
バッハは基本的にヴァイオリンを担当していましたが、代役でオルガン演奏をこなすこともありました。
同年、アルンシュタットの新教会(現在はバッハ教会)に新しいオルガンが設置され、その試奏者に選ばれたバッハは優れた演奏を披露、そのまま同教会のオルガニストに就任しました。
1705年(20歳)
バッハは4週間の休暇を取り、リューベックに旅行しました。
アルンシュタットからリューベックまでの約400kmを徒歩で向かったと言われています。

1706年 (21歳)
ミュールハウゼンのオルガン奏者ヨハン・ゲオルク・アーレが亡くなり、後任の募集が行われバッハは応募し合格。
1707年、マリア・バルバラと結婚。
2人の間に生まれた7人の子供のうち、フリーデマンとエマヌエルは後に音楽家になっています。
当時バッハの生活は困窮しており、常に良い条件の職場を探し求めていました。
生活の足しにするために、短い曲を作曲しては1曲あたりを少額で切り売りするという事もしていました。
1708年 (23歳)
再びヴァイマルに移ってザクセン=ヴァイマル公国の宮廷オルガニストになりました。
多くのオルガン曲はこの時期の作品であると言われています。
1717年 (32歳)
バッハはケーテンに移り、アンハルト=ケーテン侯国の宮廷楽長となりました。
当時のアンハルト=ケーテン侯国は音楽に理解のあるアンハルト=ケーテン侯レオポルトの統治下だったため、、恵まれた環境の中で数多くの世俗音楽の名作を作曲しました。
1720年 (35歳)
夏、領主レオポルト侯に随行した2ヶ月間の旅行中に妻が急死する不幸に見舞われました。
バッハが帰郷したときは妻はもう埋葬された後でした。
翌年には宮廷歌手のアンナ・マクダレーナ・ヴィルケと再婚しています。
彼女は有能な音楽家であったと見られており、バッハの仕事を助け、作品の写譜なども担当しています。
バッハの作品とされていた曲のいくつかは彼女の作曲であることが確実視されています。
アンナ・マクダレーナとの間に生まれた13人の子どものうち、多くは幼いうちに世を去っていますが、末子クリスティアンは兄弟の中では音楽家として最も社会的に成功し、イングランド王妃専属の音楽家となっています。
1723年 (38歳)
ライプツィヒの聖トーマス教会のカントル「トーマスカントル」に就任。
1749年5月末 (64歳)
バッハは脳卒中で倒れました。
さらに、以前より患っていた内障眼が悪化し視力もほとんど失っていたと言われています。
翌1750年3月、イギリスの高名な眼科医ジョン・テイラーがドイツ旅行の最中ライプツィヒを訪れており、バッハは3月末と4月半ば、2度にわたって手術を受けています。
手術後、テイラーは新聞記者を集めて「手術は成功し、バッハの視力は完全に回復した」と述べていましたが、実際には手術は失敗。
テイラー帰国後にバッハを診察したライプツィヒ大学医学部教授によると、視力の回復どころか炎症など後遺症が起こり、これを抑えるための投薬などが必要になったそうです。
2度の手術に後遺症、薬品投与などの治療はすでに高齢なバッハの体力を奪いその後は病床に伏し、7月28日午後8時15分に65歳でこの世を去りました。
眼科医:ジョン・テイラー (バッハ, ヘンデル, 関連人物)
シュミーダー番号
バッハ作品はBWVによって管理されています。
BWVはヴォルフガング・シュミーダーが1950年に著したヨハン・ゼバスティアン・バッハ(大バッハ)の音楽作品目録。
正式名称は Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke von Johann Sebastian Bach (ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる音楽作品の主題系統目録)で、BWVと略し、ドイツ語式にベー・ヴェー・ファウ、または英語式にビー・ダブリュー・ブイと読みます。
バッハ本人による番号付けでは無く、シュミーダー独自のナンバリングです。
プロイセン王国のブロンベルク(現ポーランド領ブィドゴシュチュ)に生まれる。
1950年にヨハン・ゼバスティアン・バッハの作品番号であるBWVを提唱、彼のナンバリングシステムはほぼ全世界の音楽学者や音楽家に採用され、国際的標準となっています。
ミュンヘン近郊のフュルステンフェルトブルック (Fürstenfeldbruck) にて89歳で死去。
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音大を卒業後ピアニストとして活動。
日本で活動後北欧スウェーデンへ。
アーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツ・ケルンに渡りAchim Tangと共にアルバム作品制作。
帰国後、金田式DC録音の第一人者:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入り。
独立後音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現:Kotaro Studio)」を結成。
タンゴやクラシックなどアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
大阪ベンチャー研究会にて『芸術家皆起業論~変化する社会の中、芸術家で在り続けるために』を講演。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにて『あなたのためのアートスタジオ』音と絵をテーマに芸術家として活動中。
2023年より誰かのための癒しの場所『Curanz Sounds』をプロデュース。