眼科医:ジョン・テイラー (バッハ, ヘンデル, 関連人物)

John Taylor (ジョン・テイラー)

1703年 – 1772年 (69歳没)

イギリスの当時有名な眼科医。

当時の著名人を多く患者として抱えており、バッハ、ヘンデル(いずれも手術の失敗により失明)、ギボンなどを治療したことで知られています。

おそらくは右利きで、患者のこめかみや頬骨を支えにできる左目しか手術をしなかったとされています。

エドワード・ギボン

Edward Gibbon, 1737年5月8日 – 1794年1月16日)は、イギリスの歴史家で、『ローマ帝国衰亡史』の著者。

若干14歳でオックスフォード大学に入学。

年表

1703年

ノリッジの薬屋の息子として生まれ、眼科学を学びます。

ヨーロッパ中を渡り歩き、バーゼルやリエージュなどで医学博士を得ました。

1736年 (33歳)

ジョージ2世の侍医に任命されており、30年以上に渡って、テイラーはロンドンを拠点に各地の王室を巡回する眼科医になっていました。

当時から眼科医としての優れた技術で「勲爵士」(シュヴァリエ)として広く知られていたテイラーでしたが、ほとんど彼一流の自己宣伝術によるものであったと1885年発行の『英国人名事典』は書いています。

1750年 (47歳)

ライプツィヒに滞在中だったテイラーは、音楽家:バッハの眼を手術。

直後に地元の新聞は手術が成功であったと報じましたが、実際には失敗。

数ヶ月後には2度目の手術が行われたが改善せず、バッハは失明状態になったとされています。

ポイント

手術から数週間後にバッハは亡くなっています。

ヨハン・セバスティアン・バッハ (J. S. Bach)

この頃にはテイラーは風刺などの対象にもなっており、バラッド・オペラには彼をテーマにする芝居さえありました。

1772年テイラーはプラハの修道院で亡くなりました。

テイラーはそれ以前から盲目だったと言われています。

18世紀の医学年表

ジョン・テイラーが眼科医として活動していた当時の医学はどの程度の水準だったのでしょうか。

簡単に年表で見てみましょう。

  • 1701年 – ジャコモ・ビラリニ(Giacomo Pylarini, イタリア)が、初の天然痘予防接種を試みる。
  • 1747年 – ジェームズ・リンドが、柑橘類が壊血病を防止することを発見。
  • 1763年 – クラウディウス・アイマンド (Claudius Aymand) が、初の虫垂切除に成功。
  • 1776年 – ジョン・ハンター (John Hunter) が、初の人工授精に成功。
  • 1779年 – ラツァロ・スパランツァーニ がカエル、犬、魚などを用い、卵子と精子の接触による生物の人工授精の実験開始。
  • 1796年 – エドワード・ジェンナーが、天然痘予防接種方法(ワクチン)を開発。
  • 1800年 – ハンフリー・デービーが、亜酸化窒素が麻酔作用をもつことを発表。

イギリス簡易年表

  • 1702年 – ウィリアム3世死去。
  • 1707年 – イングランド王国とスコットランド王国の合併~5月1日、グレートブリテン王国が成立。
  • 1714年 – ハノーヴァー朝成立。
  • 1720年 – 南海泡沫事件(South Sea Bubble)株価の急騰と暴落
  • 1721年 – ロバート・ウォルポールが初代首相就任。
  • 1739年 – 盗賊リチャード・ディック・ターピンがヨークで処刑。
  • 1768-1771年 – ジェームズ・クックの航海。ジェームズ・クックが、ニュージーランドに上陸した最初のヨーロッパ人。
  • (1775-1783年 – アメリカ独立戦争)
  • (1789年 – フランス革命)
  • フランス国王ルイ16世は1793年に処刑される
  • 1793年 – ブリテンが対フランス戦争に参加。
  • 1798年 – ナイルの海戦
  • 1798年 – ビネガーヒルの戦い。

こうたろう

服部 洸太郎

フォトグラファー&サウンドデザイナー
ミュージシャンだった父の音楽スタジオと、モデルだった母の仕事場であるフォトスタジオの現像ルームが子供時代の遊び場という恵まれた環境で育つ。
音楽大学を卒業後ピアニストとして活動を開始。
自身のピアノトリオで活動後単身ドイツ・ケルンへ渡独。
ケルンを拠点に活動するアーティストAchim Tangと共に「ピアノとコントラバスのためのソナタ」を制作。
ドイツから帰国後ピアノソロ作品アルバムと共に同時リリース。
金田式電流伝送DC録音の第一人者である五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入り。
独立後、音楽プロデューサーとして音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現在はKotaro Studioに統合)」を立ち上げ、タンゴやクラシックを中心としたアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加し、本格的に写真、映像技術を学ぶ。
現在は元ピアニストの経験を生かしたミュージシャンのライブフォトを得意としながら、肖像写真、動物写真、自然写真を中心にミュージックビデオの制作などオーディオ技術も得意とするフォトグラファーとして活動中。