
Johann Michael von Puchberg
1741年9月21日 – 1822年1月21日 (81歳没)
18世紀~19世紀にかけてウィーンに住んでいた商人。
彼はヴォルフガングアマデウスモーツァルトの友人としても有名で、多額のお金を貸していました。
人生
ヨハン・マイケル・プフベルクとその妻マリア・カタリーナの6番目の子供として生まれました。
青年をZwettl(ズウェットル)で過ごしています。
1768年 (27歳)
彼はウィーンにあった、マイケル・サリエットの会社に加わり、すぐにマネージング・ディレクターに昇進しています。
1773~1774年 (32歳頃)
ウィーンのフリーメーソンのロッジ、 ズーデンドライアドラー(Zu den drei)のメンバーとなります。
1780年 (39歳)
彼は1784年に亡くなったサリエットの未亡人エリザベスと結婚しました。
その後、プフベルクの兄弟、フィリップ・アントンと一緒に1785年9月に会社を引き継ぎます。
1784年 (43歳)
モーツァルトと出会います。
モーツァルトはプフベルクを真の友人と呼び慕っており、プフベルクはモーツァルトに多額のお金を貸していました。
1788年から1791年まで、少なくとも21通のモーツァルトからプフベルクに対する借金の申し込み手紙が送られています。
1793年 (52歳)
皇帝フランツ2世によって貴族に昇進しました。
1800年以降
プフベルクはビジネスに失敗し、その後ほとんどすべての財産を失ったと言われています。
1801年にプフベルクは破産を申請、最終的に1802年3月30日にプフベルクの事業は閉鎖となりました。
ハイドンとも友人
プフベルクはハイドンの友人としても有名です。
ヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn)
モーツァルトが1790年にコソのファントゥッテのリハーサルに出席してほしいと招待したのはハイドンとプフベルク2人だけだったそうです。
フリーメイソンを通して三人は非常に仲が良かったようです。
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音大を卒業後ピアニストとして活動。
日本で活動後北欧スウェーデンへ。
アーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツ・ケルンに渡りAchim Tangと共にアルバム作品制作。
帰国後、金田式DC録音の第一人者:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入り。
独立後音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現:Kotaro Studio)」を結成。
タンゴやクラシックなどアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
大阪ベンチャー研究会にて『芸術家皆起業論~変化する社会の中、芸術家で在り続けるために』を講演。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにて『あなたのためのアートスタジオ』音と絵をテーマに芸術家として活動中。
2023年より誰かのための癒しの場所『Curanz Sounds』をプロデュース。