Hasselblad (ハッセルブラッド)の歴史を徹底解説!
この記事の目次
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執筆:こうたろう / 音楽家・宗教文化研究家
音楽大学で民族音楽を研究。
卒業後ピアニストとして活動。
インプロビゼーション哲学の研究のため北欧スウェーデンへ。
ドイツにて民族音楽研究家のAchim Tangと共同作品を制作リリース。
ドイツでStephan Schneider、日本で金田式DC録音の五島昭彦氏から音響学を学ぶ。
録音エンジニアとして独立し、芸術工房Pinocoaを結成。
オーストリア、アルゼンチンなど国内外の様々なアーティストをプロデュース。
写真家:村上宏治氏の映像チームで映像編集&音響を担当。
現在はヒーリング音響を研究するCuranz Soundsを立ち上げ、世界中に愛と調和の周波数を発信中。
最初期のハッセルブラッド
ハッセルブラッドの代名詞とも言える500シリーズを作り上げたのは1906年3月8日スウェーデンのヨーテポリ生まれのビクター・ハッセルブラッド((1906年3月8日– 1978年8月5日))ですが、実はビクターは代々続いてきたハッセルブラッド商会の御曹司でした。
ハッセルブラッド商会
ビクター・ハッセルブラッドの曽祖父にあたる、フリッツ・ビクトル・ハッセルブラッドは1841年ヨーテポリにF.W.ハッセルブラッド商会を設立しました。
設立当初は雑貨屋さんのような状況でナイフや釣り糸やボタンなど生活に使える様々なアイテムを取り扱っていました。
1840年代には肖像写真のブームを迎えたヨーロッパ。
モーツァルトのパートナーだったコンスタンツェ・モーツァルトの1840年代に撮影された写真も残っています。
創業者であるフリッツ・ビクトル・ハッセルブラッドの息子でアービット・V・ハッセルブラッドは大のカメラ好きであり、アマチュア写真家でした。
アービットはハッセルブラッド商会の社内で写真部門を作り大成功を収めます。
ジョージ・イーストマンといえば、日本のカメラ王である小西六の杉浦六三郎とも会っていますね。
アービット・ハッセルブラッドとジョージ・イーストマンは意気投合し、その後80年にも渡り業務提携を結んでおり、1888年ハッセルブラッド商会はコダックのスウェーデン総代理店として写真部門を拡大し、1908年にはハッセルブラッド・フォトグラフィスカを設立するまでに成長しました。
写真のカメラは1900年から1910年にかけて発売されていたモデル。
この年、ジョージ・イーストマンはコダックの商標を取得し、世界初のロールフィルムカメラであるNo.1コダックを発売。
このNo.1コダックは「あなたはシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります」という有名なキャッチコピーで展開され、撮影後にコダックにカメラを送って10ドル支払えばフィルムを現像とプリントをしてくれて、新しいフィルムが装填された状態で送り返してくれるというサービスでした。
ハッセルブラッド商会の2代目であるアービット・V・ハッセルブラッドがハッセルブラッド・フォトグラフィスカで大成功を収めました。
その息子カール・ハッセルブラッドのさらに息子の代、つまりハッセルブラッド商会の4代目がビクター・ハッセルブラッドであり、今日まで続く伝説的な機種の数々を誕生させました。
Victor Hasselbladと初号機
ビクターが誕生した頃すでにアービットはいませんでしたが、ビクターは生まれた頃からカメラや写真に囲まれて過ごしていました。
幼い頃から野鳥観察が趣味だったビクターは毎日野鳥観察をしてから登校し、授業中は居眠りばかりする少年でした。
18歳で学校を中退し、ドイツのドレスデンにカメラ修行に出向きます。
ドレスデンでの修行後は、フランス、アメリカと渡り歩き、現地のカメラやフィルムの製造工場や現像所で写真のすべてを叩き込みました。
ビクターはドイツでも大判の木製一眼レフカメラグラフレックス8×10.5カメラにゴルツの望遠レンズをつけて野鳥撮影を行なっていました。
ビクター、ニューヨークへ
ビクターの祖父にあたるアービットとジョージ・イーストマンの絆は先述の通りですが、そんなアービットの絆は孫のビクターまで受け継がれていました。
ジョージ・イーストマン(当時は70歳前半ころ)はビクターをコダックの本社で雇い、ニューヨークの自宅でアメリカ滞在の面倒をみていました。
1925年には引退していたジョージ・イーストマンでしたが、おそらくビクターとジョージはこれが最後の別れとなったことでしょう。
ジョージ・イーストマンは、最晩年の2年間は病気に苦しみ、1932年3月14日、自邸にてピストル自殺しました。
遺書には「友よ、私の仕事は終わった。なぜ待つのか?(To my Friends, My work is done. Why wait?)」と書かれていました。
1929年にはウォール街で歴史的な大暴落を記録していますので、ジョージ・イーストマンにとってはいろいろと苦難の晩年となったことでしょう。
第二次大戦を機に現在の形の原型が生まれる
カメラやマイクなどの現在でも主流のコンテンツ制作用アイテムは第二次世界大戦で飛躍的に進化したといっても過言ではないでしょう。
ナチスドイツ率いるヒトラーの演説のためにノイマンやゼンハイザーといったドイツ系のオーディオメーカーも続々性能が上がっていった時代でした。
当時のドイツのテクノロジーは世界的にみても凄まじいものがあり、終戦後は東西それぞれドイツのテクノロジーを分けていきます。
特にカメラの世界だとライカのレンジファインダー型カメラや、光学技術は戦後世界中でコピーされていきます。
もちろん米ソ冷戦時にも飛躍的に進化していきましたが、やはりカメラやマイクというのは、戦争がきっかけで変化し、進化していったと言えます。
ハッセルブラッドも現在の形の原型ともなるシリーズの初号機は戦争がきっかけでした。
ドイツ空軍が落とした贈り物?!
1940年、スウェーデン空軍の将校はスウェーデン上空で撃墜されたドイツの偵察機に導入されていたカメラをビクター・ハッセルブラッドに持ち込み、同じものを作れないか?と持ちかけます。
ビクター(当時34歳)の答えは「残念ながら同じものはできない。」というものでした。
しかしかっこいいのがこの後に続く言葉。
「しかし、これ以上のカメラならできる。」と答えたわけです。
当時ビクターに持ち込まれたドイツ空軍の偵察カメラがHK-12.5などでした。
フィルムは80mm幅の7×9センチでした。
HK-7誕生
こちらが元祖ハッセルブラッドとも言えるHK-7(342台製造)。
この軍用カメラの製造のために数十人が働く工場にまで一気に成長し1941年から大量生産を開始、スウェーデン空軍のみならず、陸軍からも大量の発注があったと言われています。
ドイツ空軍から押収したカメラとほぼ同じ形状で同じ仕様だったと言われています。
しかしビクターのHK-7の方が優れていた点としてなんとレンズ交換式となっていたこと。
写真でみてもほぼ500シリーズのハッセルブラッドとそっくりなのがわかります。
SKA4の誕生
1941年の終わり頃になると、空軍からは新たな依頼が入ります。
より大きなフィルムで且つ飛行機の中で固定して撮影できるカメラの製作を依頼します。
この依頼により、カメラを飛行機に固定したままフィルムの交換ができるモデルを開発。
ハッセルブラッドのスタイルが徐々に出来上がっていく様子が伺えます。
当時フィルム交換が可能なSKA4がこちら。
飛行機に固定し、上空から大型のフィルムで地上の様子が撮影できそうなモデル。
こちらはなんと12×12の軍用特別フィルムでした。
元々空撮用カメラとして開発されてきたハッセルブラッドが中国のドローン大手DJIと提携して、時を超え空を舞うというのはなんともロマンのある話ですよね。
ドイツではライカがⅢa(G型)を軍用に大量生産していた時代です。
ここまでをハッセルブラッドの歴史、前半ということにしておきましょう。
ここから戦後いよいよ1600Fの誕生となります。
1600Fの誕生と近代ハッセルブラッド史
ビクターは軍用カメラの開発を続けるうちに、様々な発想と技術的ノウハウを蓄積していき、戦後1948年には民間用の6×6の一眼レフカメラを開発しました。
1948年:1600F
1600Fの1600はシャッター速度のことで、開発当時500分の1秒が主流だったカメラ業界としては驚異的な速度でした。
戦争が終わり、自身の会社で製作したカメラで再びのんびり野鳥撮影がしたかったんでしょうか。
民間用第一号のシャッター速度が1600分の1秒を入れてくるあたり、本当に野鳥観察と撮影が大好きだった様子が伺えますね。
当時の設計メモが残されていますが、1948年にすでにここまでの完成度というのは本当に驚かされます。
現在でも当時の設計に基づいた復刻版が製造されていたりとまさに伝説と言える存在ですし、U47のシュミレーションプラグインは多数開発されています。
1953年:1000F
1600Fの次に1000Fが発売されます。
こちらはシャッター速度が1000分の1秒モデルになります。
雑誌のテスターは500本のフィルムで撮影し、意図的に2度落下させましたが、ハッセルブラッド1000Fは壊れることなく、調子が悪くなることもなかったとレポートされました。
この耐久性の高さは世界中で評価されました。
1000F時代のレンズラインナップ
135mm f3.5 Ektar
55mm f6.3 Widefield Ektar
254mm f5.6 Ektar
250mm f4 Sonnar
60mm f5.6 Distagon
135mm f3.5 Sonnar
250mm f5.6 Sonnar
508mm f5.6 Dallmeyer
1953年といえば一年違いですが、1954年に日本ではその後都市伝説として語り継がれる非常に興味深い不可解な事件が発生しています。
1600Fはどれほど貴重な存在なのか?
今でも稀にオークションサイトなどでみかけますが、極めて状態のいい1600Fは海外のオークションサイトでもかなり貴重な存在です。
初期ロットはシリアルNO,001〜308。
この中から35台分は社員や展示用として確保されているそうなので、市場に出回っている初期ロットの1600Fは273台ということになります。
その後は1952年までに計3221台製造されており、初期ロットで159台、後期型が476台スクラップ処理された記録が残っているそうなので初期型は全世界に114台、後期型で2745台、計2859台が世界に存在していることになります。
当然これよりも少ないでしょうから、令和の今世界に何台残っているのか不明です。
1600Fももしかすると・・・2048年までいい状態のものをキープできれば凄まじい投資になるかもしれません。
家財整理などでみかけた際は間違っても適当な質屋に売ってしまってはいけません。
1600F当時の価格表〜現在の価値だと?
さて、1948年から1952年まで製造されていますので、間をとってみてみましょう。
1950年頃、1ドルは360円。
日本での物価はだいたいですが・・・
- 大卒初任給(公務員)4223円
- 牛乳:12円
- かけそば:15円
- ラーメン:20円
- 喫茶店(コーヒー):25円
- 銭湯:10円
- 週刊誌:15円
- 新聞購読料:70円 ※朝刊のみ
- 映画館:80円
このようになっています。
499.50ドルが当時の1600Fの価格ですので、まずは円換算すると17万9820円。
大卒公務員の年収が5万0676円。
17万9820円というと、3.54……年分の給料になりますね。
2022年の平均年収の中央値が約396万円ですので、これを3.5倍すると・・・
こんな単純な計算にはならないかと思いますが、1386万円のカメラレンズキット・・・ということになります。結構リアルなありそうな数字が出てきましたね。
500シリーズ
1600Fや1000Fのレンズ資産は運用できませんが、500シリーズはその後20世紀のファンション、広告などの華やかな世界で一世を風靡し、世界中で愛され続けていく機種になります。
500シリーズ初代500Cは日本正規代理店であるシュリロでは修理受付を終了してはいるものの、修理やメンテナンス、オーバーホールなどは探せばたくさん出てきますので、現在でも現役の中判フィルムカメラとして使うことができます。
1957 – 1970 : 500C (宇宙)
1957年10月にレンズシャッター式一眼レフである500Cを発表しました。
ボディ自体はその完成度の高さはもちろん500Cの最大特徴としてはカメラ史上初めて宇宙にいったカメラとして歴史に名を残しています。
アポロ計画とハッセルブラッド
ハッセルブラッドファンのみならず多くの人がハッセルブラッドの名前を知ることになった一つのきっかけがやはり宇宙カメラでしょうか。
500CはNASAで採用された初めての宇宙カメラとして歴史的な一台になりました。
1962年10月3日に打ち上げられたマーキュリー8(シグマ7号)に宇宙飛行士ウォルター・シラーとともに搭乗しました。
ウォルターがカメラに精通していなければ数多くの宇宙の素晴らしいフィルム写真の数々は残らなかったかもしれません。
ウォルターとともに宇宙に旅立った500CのレンズはPlanar f/2.8
ウォルターが個人的に持ち帰った写真によりNASAがハッセルブラッドに注目をしたと想像できますが、このウォルターの私物500C以降は、NASAとハッセルブラッドが緊密にコンタクトを取り合い、宇宙用カメラの開発が始まります。
おそらくほとんどの人は宇宙飛行に必要とされるカメラの信頼性について考えもしなかったでしょう。
ハッセルブラッド公式サイト / ハッセルブラッドの歴史より
カメラは-65℃から120℃までの過酷な条件下で完璧に動作することが求められました。
無重力や数えきれない未知の危険はいうまでもありません。
1枚1枚が歴史的財産であり、二度と撮れない写真でした。
ハッセルブラッドはその度にチャレンジしてきました。
その後宇宙用軽量化モデルが多数開発され、いよいよ1969年7月20日にアポロ11号が月面に着陸。
一緒に月に行ったのがZeiss Biogon 60mm ƒ/5.6レンズを装着したHasselblad Data Camera(EDC)です。
アポロ11号から最後のアポロ17号までで合計12台のハッセルブラッドカメラのボディがツァイスレンズ付きで月面に残さたままになっています。
フィルムマガジンだけが地球に持ち帰られたわけです。
NASAの歴史をかけたプロジェクトですから当然月に持っていくのは新品のピカピカだと思います。
ほぼ新品のハッセルブラッドのボディとレンズ、完全な真空状態で月にて保管され続けているわけです。
2019年5月に発表されたアメリカ政府が出資している月面着陸計画であるアルテミス計画というものがあり、2024年までに「人類初の女性」を月に到達させる計画があります。
予定通りだとすると55年ぶりに55年間真空で保管されたハッセルブラッドのボディとツァイスレンズが回収されることになります。
もちろん2024年に持っていく機材はREDなどのすごい機材にはなってくるかと思いますが、月に真空保管されていたツァイスレンズをマウントアダプター経由でなにか撮影できないでしょうか。
あるいは、CFV II 50Cなどのデジタルバックを装着し、撮影するなんてロマン・・・もサブ企画としてあったら最高だな〜
ハッセルブラッドで撮影した宇宙写真集
歴史的なアート作品です。
1970 – 1989 : 500C/M
500Cの後継機として発売されシリアルナンバーは106701から開始されます。
機種名のMは「Modified Version」のMで、500Cの改良型であることが示されています。
大きな変更点としてはフォーカスシーリングの交換が500Cでは専門店に持ち込みだったのが、500C/Mからはユーザー自身で行えるようになったことでした。
今でも中古のハッセルブラッドの中ではこの500C/Mが最も人気の機種になっています。
1988 – 1994 : 503CX
ニューベーシックモデルとして、18年間の500C/Mの栄光から改良モデルが登場しました。
この機種から標準装備のフォーカシングスクリーンが交換可能なミノルタ製アキュートマットになりました。
アキュートマットはまさにハッセルブラッドのファインダーに革命を起こしたと思います。
このことでファインダーが見やすくなり、さらに内部にはパルパス材が採用され内部反射を極限まで抑えるための工夫が施されています。
ただし、ヒビ割れがあっても撮影には影響しません。
TTLオート機構も装備されハッセルブラッドフラッシュや、SCA-300、SCA-500などの専用システムを使って自動制御することができます。
1994 – 1996 : 503CXi
503CXのマイナーモデルチェンジ版です。
CXiのiは「improved(改善)」のi.
専用のフォーマットマスクを使用することにより645やパノラマサイズの撮影も可能になりました。
確かにこのタイムレバーはなんとなく使い所が掴めない感じがありますよね。
長時間露光となると、タイムレバーの操作で必ずぶれますし、基本的にはレリーズケーブルを使用するかと思います。
シンプルな構造のレリーズケーブルは貴重です。
1994 – 1997 : 501C
501C専用のCレンズとフィルムマガジンがセットになった入門用としての位置付けで発売されてました。
1997 – 2004 : 501CM
503CWでも採用されているグライディング・ミラー・システムを採用。
1996 – 2010 : 503CW
アキュートマットDを標準装備した500シリーズの集大成とも言えるモデル。
500ELシリーズ
1960年代の世界的なモータードライブ化の流れを受けて500Cにモータードライブを装着したモデルが登場しました。
モータードライブは1秒に1コマ自動でフィルムを巻き上げてシャッターをチャージしてくれます。
NASAのアポロ計画にも使用されました。
中古品としては比較的人気が低いため、500Cよりも安価で入手がしやすいモデルになります。
1965 – 1972 : 500EL
モータードライブモデルの元祖です。
1個のバッテリーで約1000回シャッターが切れます。
現在は専用ニカド電池だけでなく単三電池が使える006Pアダプターなども販売されています。
シリアルナンバーは8000〜15074で計7075台製造されました。
1972 – 1984 : 500EL/M (宇宙)
500C/M同様ユーザー自身でフォーカスシーリングが交換できるようになっており、シリアルナンバーは15075から始まります。
1984年まで製造されたロングセラー商品となりました。
1975年7月には、70mmフィルムマガジンと組み合わせて使うためのレフレックスビューファインダーRM-2の改良型であるHC3-70ファインダーを装備した500EL/Mをベースにした宇宙用一眼レフが誕生しました。
アメリカのアポロ宇宙船と旧ソ連のソユーズ宇宙船のドッキング計画(アポロ・ソユーズドテスト)で記録写真として使用されています。
1984 – 1988 : 500ELX
500EL/Mの改良型でXはストロボのX点を表現しています。
TTL自動調光機能を搭載しており、ミラーの大型化やバックシャッター部分にパルパス材を採用し内面反射を抑えるなどの工夫がされています。
1988 – 1999 : 553ELX
このモデルから503CX同様ミノルタ製のアキュートマットが採用。
専用のニカド電池からどこでも入手できる単三アルカリ乾電池でも作動するようになり、バッテリーのチェック表示も搭載されました。
最高で1秒当たり1.2コマのペースでの連続撮影も可能になりました。
1999 – 2006 : 555ELD
ミラー保持機能を搭載し、ミラーの耐久性を極限まで高めました。
スタジオで酷使することを前提としたモデルでELDのDはデジタルの意味でデジタルバック用のシャッターボタンなども搭載しており、リモコンシャッターにも対応。
ボディ内は新しい反射防止対策が施されておりコントラストを高めることに成功しています。
2000シリーズ
1600Fから20年ぶりにリニューアルされたフォーカルプレーン機です。
無類の野鳥好きのビクターにとってどうしても高速なシャッター速度は必要でした。
2000FCでは発売当時世界最速となる2000分の1秒の高速シャッターが可能となっており、同時にビクター・ハッセルブラッドが自らテストした最後のハッセルブラッドとなりました。
1977 – 1981 : 2000FC
発売当時世界最速のシャッタースピードを誇ったモデル。
ビクターがテストした最後のモデルともなりました。
Fはフォーカルプレーン。
Cはコンパーレンズシャッターを意味しています。
従来型のレンズシャッターであるCやCFレンズや、後継レンズともなるFE,CFEレンズも使用可能となっています。
1981 – 1984 : 2000FC/M
2000FCの改良型。
125分の1秒と250分の1秒の間となる185分の1秒や、1000分の1秒と2000分の1秒の間となる1500分の1秒などのシャッター速度も使用可能になっています。
このモデルからの新しい機能としてオートマチック・シャッター幕や、セーフガード機能としてフィルムマガジンを外す際は自動的にシャッター幕が開きシャッター幕へダメージを与えないような機構になっています。
1984 – 1988 : 2000FCW
2000FC/Mの改良型。
巻き上げクランク部に1秒当たり1.3コマで連続撮影可能なワインダーを装着することができるモデルとなっています。
単三アルカリ電池5本で約4000コマ巻き上げ可能。
CポジションでCレンズを使用する際はバッテリーなしで作動可能。
電動と手動のハイブリットモデルとなっています。
1988 – 1990 : 2003FCW
機能的に2000FCWと同じモデルで、たった2年間の短い期間しか製造されていない幻のようなモデルです。
503CXの時期とも重なっており、ファインダーはミノルタのアキュートマットが標準装備されボディ内部はパルパス材が使われています。
ボディの側面にラバーが貼り付けられておりホールド性能がアップし、ミラーアップのイラスト表示も追加されています。
503CXと同じハッセルブラッドの文字と機種名が浮き彫りになっています。
200シリーズ
ハッセルブラッドVシステムの最終進化型とも言える高い完成度を誇るシリーズです。
電子制御式のフォーカルプレーンシャッターを搭載し、長い歴史の中で作り上げられたハッセルブラッドの耐久性、精密加工技術が存分に使用されており、シャッター速度も2000分の1秒が基本となっており201F以外は露出計も内蔵されています。
1991 – 1995 : 205TCC(50周年記念モデル)
ハッセルブラッドの設立50周年を記念して発売されたモデルです。
TCCは「トーンとコントラストをコントロール」の頭文字からきています。
TTL開放測光スポットメーターを内蔵。
電子制御式ラバーコーティング布幕フォーカルプレーンシャッターで、34分〜2000分の1秒まで撮影可能となっています。
予め使用フィルムのラチチュードを入力しておくとそれを超えた場合に警告が出る機能も搭載されています。
2本のブルーライン入りのTCCフィルムマガジンと組み合わせればマガジン側でフィルム感度のセットが可能となっており。
ワインダーTCCと組み合わせれば2000FCW同様1秒当たり1.3コマで連続撮影が可能になります。
1994 – 2004 : 203FE
205TTCの露出計をスポット測光から中央重点即効に変更したモデルです。
1994 – 1998 : 201F
露出計を持たない非常にシンプルな機種。
TTL自動調光は可能です。
1995 – 2004 : 205FCC
200シリーズ最高級機種とも言われるハッセルブラッド史最強モデル。
オートブラケッティング機能が搭載され、Abモードは絞り優先AEでシャッターボタン半押しまたはセレクターダイヤル中央の赤いリングの測光ボタンを押すと測光値ロック、ワインダーと組み合わせてシャッターボタンを押しっぱなしにするとオートブラケッティングされる仕組みになっています。
撮影者の意のままに露出をコントロールできるまさにVシステムモデルの最高峰。
1998 – 2001 : 202FA
203FEと201Fの中間モデルとして位置付けられており、シャッター速度は34分-1000分の1秒となっています。
特殊モデル
フレックスボディやアークボディなどのテクニカルカメラはハッセルブラッドの中でも異色機種となっています。
アオリ撮影ができることからこれまで十分に対応することができなかった建築撮影などの分野をカバーする目的で開発されました。
1995 – 2006 : Flex Body
バックティルト前後各28度、バックライズ/フォール上下各14mmの機構内蔵のテクニカルカメラ。
ハッセルブラッドVシステム用レンズシャッター付レンズ、マガジン、ファインダーが使用可能。
シャッターチャージの際は毎回フィルムマガジンに引き蓋をする必要があります。
1997 – 2002 : Arc Body
バックティルト前後15度、バックライズ/フォール上下28mmの機構内蔵のテクニカルカメラ。
フィルムマガジンはハッセルブラッドVシステムと共通で使えます。
ファインダーも共通で使用可能ですがハッセルブラッドはRMfxファインダーを推奨しています。
フレックスボディと比較するとシャッターチャージも楽になりました。
EC 500EL (宇宙)
500ELをベースとしたハッセルブラッド初の宇宙用に開発したモデル。
アポロソユーズテストで使われました。
EDC (宇宙〜月面到達モデル)
500ELをベースに製作されたアポロ11号月面着陸用に作られたモデル。
これぞ宇宙モデルというべくモデルとなっており、−65℃から+120℃までの温度差でのテストにクリアした超耐久モデルです。
寒暖差に耐えるために内部の素材やシャッター等の機械部も結露が発生しないための工夫がいたるところに施されています。
搭載レンズはビオゴン60mm。
このレンズもアポロ11号のために新設計されたレンズとなっており、先端に偏光フィルターが内蔵されているスペシャルモデルになっています。
553ELS (スペースシャトル)
1990年代にスペースシャトルのミッションで使用するために製造されたモデル。
レフレックスビューファインダーRM-2の改良型ファインダーが用意され各フィルムにデータを自動記録できます。
海外のオークションサイトなどを探すとたまに見つかるようで8000ドル〜1万ドル程度で取引されているようです。(2022年時点)
203C (宇宙)
宇宙モデル初となるフォーカルプレーンシャッター機となっています。
ワインダーCWの改良版が装備され、70mmフィルムを使用。
各種情報を刻印するデータシステムも装備されています。
1954 – 1957 : SWA
1956 – 1957 : SW
1959 – 1979 : SWC (宇宙)
超広角レンズとなるビオゴン38mmレンズが装着されました。
1966年6月3日に打ち上げられたジェミニ9号のミッションで使用されています。
宇宙飛行士ユージン・A・サーナンはアポロ10号、17号に船長として乗り込み、SWCでも多くの写真を撮影しています。
1979 – 1988 : SWC/M
1988 : 903SWC
まとめ
ハッセルブラッドの歴史を見てきました。
全モデルをざっくり見てもやはり500シリーズの完成度は非常に高いと言えます。
もちろん2000・200シリーズも素晴らしいとは思いますが、やはりフォーカルプレーンシャッター機の場合は故障のリスクが必然的に高まります。
VシステムのAマガジンはスウェーデン鋼で耐久性を上げつつ、歯車同士の材質を変え万が一破損しても他の部品に影響が出ないよう考慮して設計されています。
そういう視点で見ても、500シリーズは壊れない。
そもそもそれぞれの駆動部分が分離しているので、「カメラが壊れる」という概念が存在しないとも言えます。これだけ長い歴史の中で多くの人々に愛され、信頼され続けてきた意味がよくわかります。
ビクターが生まれ育ったヨーテポリの街
さて、筆者の経歴の中に『自身のピアノトリオで活動後北欧スウェーデンにてシンガーアーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。』とありますが、このスウェーデンの街がヨーテポリなのです。
そのためビクター・ハッセルブラッドには非常に親近感を勝手に感じています。
ヨーテポリはスウェーデンの首都ストックホルムについで2番目に大きな街。
ストックホルムは聞いたことあるけどヨーテポリって知らないという方も多いのではないでしょうか。
それもそのはず、特に観光地もなければUSJのような施設もないため、会社の都合で出張するか、留学かくらいでしか訪れることのない街です。
そもそもスウェーデン自体が全体で人口1000万人程度。
東京23区を合わせた人口よりも少ないことになります。
ヨーテポリの人口はというと、約58万人でだいたい鳥取県くらいの感覚です。
ところがすごい国というか、すごい街なんです。
教育には凄まじい力を入れており、一人一人の能力は凄まじく高い。
筆者がヨーテポリに滞在していた時期は音楽業界の中で動いていましたが、一緒に飲んでたおっちゃんがなんとあのNordのオフィシャルエンジニアだった・・・なんてこともあったり。
そうなんです。
スウェーデンといえばハッセルブラッドも歴史的なブランドですが、音楽業界ではNordがあるんですね。
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これももう伝説的というか、音楽人からするとなんとも言葉にできないとにかくただただ涎が出るような本当に唯一無二のブランドです。
スウェーデン人は何歳からでも学びたい人はとことん学ぶことができます。
60歳で医学生なんて当たり前の世界。
30歳なんて何をするか考える時間?というくらい人生をのんびり、そして学びの時間に使います。
そしてとにかく家にいる時間が長いです。
一日中夜・・・なんて時期や地域もありますし、雪国のためあんまり外出しませんし、夜18時になると酒屋さんは閉店(現在は不明)、バーは開いてますが多分数えられるほどしか店はありません。
夜は22時くらいになるとあんまり人も出歩かない。
だから北欧の家具というのはおしゃれに徹底的にこだわると言われていますよね。
それだけ家にいる時間が長いので、自宅での時間を有意義に過ごしたいのです。
これはヨーテポリの美術館。
筆者はヨーテポリ到着後すぐに向かいました。
窓口で入場料を尋ねると・・・いくらくらいだと思いますか?
日本だと美術館の入場料はだいたい1000円〜1500円が主流ですよね。
ヨーテポリの美術館はなんと日本円にして約500円。
日本の約半分くらい・・・だと思いきや、この500円という値段は年間パスの値段になります。バス待ってる間にちょろっと1時間くらい散歩するなんてことも可能で、もうこの美術館にある膨大なアート作品は自分の家にあるのと変わらない敷居の低さで体験することができます。
それだけ教育というか、感性を磨くことに対して熱心というかオープンな国民性が表れていると言えますね。
さらに家の中をおしゃれにしておきたい理由としてスウェーデン人の独特の客人の招き方があります。
客人を招き入れた際は、家の中を隅々まで紹介して回るというのが礼儀というかしきたりのようになっているようです。
それは例えばプライベートなベッドルームだとしても、とにかくもうトイレ、シャワー室はもちろん靴箱まで徹底的に隅々まで見せられます。
とあるお家にお邪魔した時に最初に始まるのがルームツアーでした。
最初筆者も驚いて、「なんで人の家の寝室をみなきゃいけないんだ?」と不思議に思っていたのですが、それがスウェーデンでの文化だそうで、客人を隅々まで案内しなかった場合や紹介しなかった部屋がある場合は、「その家は何か見せられない秘密があるのではないか?」と信頼関係にある程度の影響を及ぼすほどだそうです。
そんなおうち時間が長いスウェーデンだからこそ、研究や考察に余念がないのかもしれません。
さらに筆者は街の中心から少し離れた住宅エリアや、森のエリアにも行ってきましたが、ビクターの少年時代からの強いこだわりである野鳥観察がいかに魅力的かというのを体感してきました。
スウェーデンの森は本当に美しく、野鳥もたくさんいます。
美しく、本当に絵になる世界です。
今改めてハッセルブラッド503CXを持って是非再訪したいと強く思っています。
スウェーデンの教育について
筆者は実際に学校に見学にいったわけでもないので本質的なことはわかりません。
ただし、Youtubeでスウェーデンの学校が紹介されていますので、チェックしてみてください。
国自体の空気感もまさにこんな感じです。
やはりやりたいことを好きなことを伸ばすという概念が非常に強い国なのではないか?と感じました。
ビクターも野鳥観察ばかりしていた少年で、元々がカメラが大好き。
ハッセルブラッド商会の御曹司という立場はもちろんあったでしょうが、少年時代から野鳥の研究やそれを撮影するためのカメラの研究を好きなだけさせてもらえていた様子が想像できます。
大学の学費は無料(現在は外国人は有料になっていると思います)生活費もなんかうまい方法があるとかないとかで、ちょっと社会主義のような空気も感じたりします。
しかしそこがまたハッセルブラッドやノードなどの徹底的にこだわり抜いた一品を創る環境だと言えます。
21世紀の教育に関しても非常に先進的なスウェーデンは、学校選択制が導入されていたり、先ほどの映像のように自由に伸び伸び学ぶというスタイルが確立されています。
少なくとも整列させられたり、集団行進させられたり、手を後ろで組まされたりといった力で抑えつけるスタイルの軍式教育はスウェーデンにはなさそうです。
そんな自由な発想力と探究心を伸ばす教育精神が根づくスウェーデンでは、ハッセルブラッドはもちろん、ノードやイケア、H&Mなど日本でも誰もが知ってるような世界的企業が誕生していますし、それぞれ皆独特の存在感を放っています。
スウェーデン、ヨーテポリ生まれのハッセルブラッドもスウェーデンらしさをほんのり香らせつつ、カメラや写真という未来に持っていくものを選択できる技術と歴史を詰め込んだ素晴らしいブランドです。
この記事をきっかけに是非お気に入りのハッセルブラッドを探すきっかけにしてみてはいかがでしょうか。