世にも恐ろしい株式市場の悲惨な暴落史をざっくり把握する

この記事について上がり続ける相場はありません。
これは、株式市場が始まってから現在に至るまでの世にも恐ろしい暴落相場の記録です。
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株式市場の悲惨な暴落史

1873年~ウィーン証券取引所の暴落

引用:Wikipedia

1873年5月9日のブラックフライデーに、ウィーン証券取引所の株式価格は下落、さらにパニック売りの波により引き起こされました。

この暴落は当時開催されていたウィーン万国博覧会の来場者数の減少にもつながっています。

この事件の後は証券会社の約半数が取引所に上場しなくなったとも言われています。

1907年~1907年恐慌

1907年10月の金融危機でウォール街に集まった群衆 / 引用:Wikipedia

1907年、F・アウグスタス・ハインツ(F. Augustus Heinze)所有のユナイテッド銅(United Copper、ユナイテッド・コッパー)社の株買い占めがきっかけとなって始まりました。

F・ハインツはモンタナ州ビュートの銅鉱山で財を成した実業家。

F・ハインツとチャールズW.モースの二人の投機の重みで会社は生き残れず、株価は急落。

他の多くの企業がそれに続きました。

銀行や金融機関に対する国民の信頼は失墜し、預金者は資金を引き出しに走りました。

民間金融業者のJPモルガンは、1907年恐慌の救済に乗り出します。

メモJPモルガンは当時空売りを仕掛けていた20世紀の投機王:ジェシーリバモアに空売りを止めるよう連絡を入れたと言われています。
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その時の様子を漫画形式でよく表しているのがリバモアの株式投資術という本です。

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この時代のNYの様子が感じられるスライドがありましたのでシェアさせていただきました。

1929年~ウォール街大暴落

1929年ウォール街に集まる群衆

米国の株式市場は、狂騒の20年代としても知られ、1920年代には大規模な成長を遂げました。

過熱した経済は、1929年にピークに達します。

株価は1929年9月と10月に徐々に下落し始めました。

パニック売りの始まりは10月21日。

10月29日まで続きました。

1929年10月28日、ダウ平均は13%近く下落。

わずか1日で140億ドル近くが株式市場から一掃されました。

株式市場の大暴落というと、だいたいこの1929年の暴落をイメージする方が多いかと思います。

それほどインパクトの強いもので、その後全世界に広がっていき、第二次世界大戦へと歴史のコマが進んでしまうことになります。

引用:© Bettmann/CORBIS
引用:© Bettmann/CORBIS

1987年~ブラックマンデー

www.rarehistoricalphotos.com

1987年前半に株式市場は上昇し、8月下旬までにダウ平均は44%急騰。

市場は差し迫ったバブルの懸念を煽っていました。

1987年10月19日、ダウ平均が22.6%急落、S&P500先物は29%下落し、その懸念は現実のものとなりました。

1987年の暴落の背後には、コンピューター化されたプログラム取引でした。

プログラム取引は当時まだウォール街にとって新しいものでした。

全世界での損失は1兆7000億米ドルと推定されています。

映画ウルフ・オブ・ウォールストリートではブラックマンデーの様子が冒頭で少し描かれています。

1991年~日本のバブル崩壊

日本の不動産と株式市場は1980年代に異常な高さにまで上昇。

1989年12月29日、日経平均株価指数はバブルが崩壊する直前、過去最高の3万8916円に達しました。

2022年現在、日本は1991年のバブル崩壊から30年以上経過し未だ回復していないという世界的に珍しい現象に直面しています。

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Netflixを通じて世界的にヒットした村西監督の生涯を描いた「全裸監督」ではシーズン1で日本がバブルで膨れ上がっていく様子、そこからシーズン2でバブル崩壊していく様子が描かれています。
さすがに2010年代後半あたりからこの頃の夢の再来を期待する世代はかなり少なくなりましたが、つい最近まで「またあの頃の時代が訪れる・・・」という当時の甘い時代を経験した夢想家がたくさん結構残っていました。
それほど強烈ななかなか目を覚ますことのできない夢の時代だったのだと思います。

1997年~トムヤムクン危機

トムヤムクン金融危機は1997年にタイで発生し、アジアのタイガー経済としてのタイの地位を脅かしました。

ビジネスと商業は甚大な被害を受け、その影響はフィリピン、マレーシア、香港、シンガポール、台湾などの他のアジア経済にまで広がりました。

タイ政府は、1997年3月3日、20年ぶりにタイ証券取引所(SET)を停止。

1997年5月15日、タイ銀行は銀行に外国の投機家への貸付を停止するよう命じます。

タイバーツはその価値の20%を失い、IMFは救済するため介入しなければなりませんでした。

2000年~ドットコムバブル

1995年から2000年までのドットコム時代には、インターネットベースの新興テクノロジー企業がすべての投資家の空想を捕らえていました。

崩壊前にはほとんどの人がこれらのベンチャー企業へやみくもにお金を注ぎ込みました。

1995年から2002年の間に5回上昇したNASDAQは、2002年10月4日に77%下落しました。

Intel、Cisco、Oracleなどの優良株でさえその価値の80%以上を失います。

2000年から2002年の間に、S&P 500は毎年9.1%、11.9%、22.1%急落。

株式市場が過去の水準を取り戻すのに10年以上かかりました。

2008年~サブプライム住宅ローン危機

サブプライム危機は、歴史上最大の株式市場の暴落の1つです。

2008年のサブプライム危機の主な理由は、返済する余裕のない当事者に過剰な融資が行われたことが背景になっています。

ウォール街の銀行リーマンブラザーズの破産は、米国の歴史の中で最大のものとなりました。

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リーマンショックとも呼ばれるこの歴史的な大暴落はNetflixでも視聴できる「マネー・ショート 華麗なる大逆転」で当時の様子や暴落していく経緯などについて詳しく描かれています。

2010~フラッシュクラッシュ

2010年5月6日、米国の市場は36分近く続いたため、最短のクラッシュが発生しました。

2:45のクラッシュとしても知られています。

米国の規制当局は、投資会社Waddell&Reedによる41億ドルのコンピューター化された取引注文がクラッシュの原因であると述べました。

2010年のフラッシュクラッシュに主に関連した1つの株式トレーダーは、ロンドンを拠点とするトレーダー、ナリンダーシンサラオでした。

BBCは「フラッシュクラッシュトレーダーは、シカゴマーカンタイルインデックスでリモート取引するために特別に適合されたソフトウェアを使用しました。彼は、米国のトップ企業の価値を効果的に推測する契約を売買しました。」と報告。

サラオは2015年に逮捕され、4か月後に米国に強制送還されました。

2015年~チャイナショック

中国の株式市場は、2015年6月12日から2016年2月の間に大きな混乱を経験しました。

2015年7月のパニック売りは、わずか3週間で本土の株式市場から3兆ドル以上を一掃。

2015年7月までに、上海の株式市場は30%以上急落し、1400以上の企業が、損失を回避するため取引停止を申請しました。

中国政府は市場の安定化に取り組みましたが、2016年1月から6月にかけて市場はさらに下落していきます。

上海と深圳の株式市場は1月4日に暴落、続いて1月7日に別の市場が暴落しました。

これらの両方の取引日でサーキットブレーカーが取引を停止しました。

わずか2日で1兆ドル以上の価値が取引所から吹き飛びました。

2020年~コロナショック

人類がこれまでに見た中で最悪のパンデミックの1つとなりました。

各国でロックダウンされ、街から人が消えました。

最終的にS&P 500は、2月19日から3月23日までの間に34%下落。

この時、オイルが史上初めて0ドルを破りました。

その後市場は急速に回復し、S&P500は8月までに最高値に戻ります。

在宅勤務、在宅学習、オンラインショッピングが新しい標準となっていきそれらを促進していた企業がこの期間勝者になりました。

これらの急回復していった米国市場の影響で日本では空前の米国株ブームが到来。

各証券会社の口座開設数も鰻登りとなり、米国株系インフルエンサーも多数登場しました。

その他関連書籍

新訳 バブルの歴史 ──最後に来た者は悪魔の餌食

Kotaro
Kotaro
服部 洸太郎
音大を卒業後ピアニストとして活動。
自身のピアノトリオで活動後北欧スウェーデンにてシンガーアーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツへ渡りケルンにてAchim Tangと共に作品制作。
帰国後、金田式電流伝送DC録音の名手:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入りし、録音エンジニアとしての活動開始。
独立後、音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現在はKotaro Studioに統合)」を立ち上げ、タンゴやクラシックなどのアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、介護で使えるプログラムをM5Stackを使って自作。
株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにてアルゼンチンタンゴをはじめとした民族音楽に関する文化の研究、ピアノ音響、さらに432hz周波数を使った癒しのサウンドを研究中。
スタジオでは「誰かのためにただここに在る」をコンセプトに、誰がいつ訪れても安心感が得られる場所、サイトを模索中。