【西洋音楽史の考察】モーツァルトの死後、一番儲けたのは誰なのか?!

【西洋音楽史の考察】モーツァルトの死後、一番儲けたのは誰なのか?!

本日はモーツァルト関連の音楽史について。

音楽史に多大なる影響を与えた人物の一人としてモーツァルトはあまりにも有名です。

日本の義務教育の現場でも音楽室には必ずといっていいほど掲げられている肖像画。

しかし、教育現場ではなぜかモーツァルトの人物像や、歴史的な背景などは教えてくれません。

ポイントもちろん一つは先生があんまり知らないというのもあるでしょう。
しかし、上品で高貴なイメージのあるクラシック音楽は後の世のマーケティングで作られたイメージです。
そんなクラシック音楽の世界を覗くためにモーツァルトを紐解くと面白いのでシェア!

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この記事ではモーツァルトの死後の世界について考察コラムとしてまとめていきたいと思います。

実はモーツァルトはその死後に莫大な財産を稼いでいるのですが、一体誰がその財産を得たのでしょうか。

この記事を読めば、誰が一番儲けたのか・・・ぼんやりと見えてきますよ!

莫大な借金も残したモーツァルト

モーツァルトは父レオポルトが亡くなってからというもの、作品制作のスピードは極端に低下。

浪費家だったことから金銭管理もほとんどできなくなっていました。

同じフリーメイソンのロッジのメンバーである、ヨハン・マイケル・プフベルクから合計約1400フローリン以上のお金を借りていたと言われています。

ミヒャエル・フォン・プフベルク (モーツァルト関連人物)

これらのお金はモーツァルトの死後、妻であるコンスタンツェが全額返済したと言われています。

全額返済どころか、コンスタンツェは莫大な資産を構築したそうです。

では、コンスタンツェはどのようにして全額返済したのでしょうか。

モーツァルトの版権売却へ

こちらの記事にあるように、コンスタンツェはモーツァルトの死後、彼の版権を売却し莫大な利益を上げています。

1798年に版権の売却を開始していますが、1791年にモーツァルトが死んでから約7年のインターバルが存在しています。

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コンスタンツェは7年間もモーツァルトの想い出を噛み締めながらモーツァルトが残した借金の利息を払い続けていたというのでしょうか。

コンスタンツェ・モーツァルト (モーツァルト関連人物)


売却の陰にゲオルク・ニコラウス・ニッセンの存在

どうやらそういうわけではなさそうです。

版権の売却が始まった年である1798年は後に、コンスタンツェの二番目の夫となるニッセンと出会って、同棲を始めています。

ニッセンは交渉役を担っていたと言われています。

ニッセンがすべてを握っていた?

これらを調べていて筆者が直感で感じ取ったのはニッセンがすべてを取り仕切り、仕切っていた説です。

ニッセンがすべてを握っていたと思われる3つのポイントについて考察してみましょう。

1、幅広い人脈

ニッセンは外交官です。

臨時代理大使としてウィーンに赴任している際にコンスタンツェと出会っていますが、当然庶民からは想像もできないほどの幅広い人脈を持っていたと考えられます。

当時のヨーロッパでは、キリスト教が幅広く浸透していたのもあり、男尊女卑社会であったことは容易に想像できます。

おそらくニッセンと出会うまでのコンスタンツェは版権をうまく売却するための知恵や、知識、人脈などは皆無だったと考えられます。

完全に想像でしかないですが、現代で言えばマイケルジャクソン?のような存在。

もしマイケルジャクソンの版権を相続しどうしていいかわからない借金苦の未亡人がいたとしたら・・・

それがコンスタンツェだったのではないでしょうか?

ただし、コンスタンツェが世間知らずの全くの無知であったかというと、それもまた疑問です。

詳しい当時の法律はわかりませんが、当時モーツァルトの抱えていた借金は相続を放棄することもできたはず。

当然借金はないにこしたことはありません。

しかし、当然常識的に想像するとすれば、相続放棄をしてしまうと莫大な数のモーツァルトの版権まで放棄してしまうことになるため、借金も一緒に背負ったと考えるのが自然です。

とすると、少なくともモーツァルトの版権がいくらくらいの価値になるのか?

この価値についてはある程度の精度で把握し、借金+利息から差し引いて計算できていたものとも考えられます。

こういった背景からコンスタンツェが売却するまでの期間は、ただ売却ルートや交渉、人脈に困りながら過ごしていた7年間であることが想像できます。

そこに偶然か必然か・・・現れたのが外交官のニッセンだったわけです。

2、子供を作っていない

さて、ニッセンはコンスタンツェと結婚しますが、生涯二人の間にはモーツァルトとの間にできた2人の連れ子だけだったといいます。

これにはいくつか説が考えられます。

当然当時、まともな避妊技術などは確立されていなかったのは確かです。

コンスタンツェがモーツァルトとの間に6人の子供を出産していることを考えると、かなり意図的に子作りを避けていたのではないかと考えられます。

出会ってすぐに同棲をするほどの熱烈ぶりの中、一度も出産または記録がなかったというのは、ニッセン側、コンスタンツェ側、どちらかはわかりませんが、なんらかの強い意図を感じます。

ただし、当時二人が出会ったのは35歳。

当時の感覚で35歳というと、出産する際の身体的リスクはかなりのものだと考えられますからそういった側面で避けていたとも考えられます。

仮に身体的リスクを考慮しての意図ではないとすると、ニッセンがビジネス目的で近づいたか?

もしくは、コンスタンツェがニッセンの人脈目当てで近づいたか?

もしくはその両方か?

みなさんはどう思いますか?

3、ニッセンはその後モーツァルトの存在で稼ぎまくっている

もちろん売却の交渉により、コンスタンツェと共に莫大な資産を手に入れたことは間違いありません。

現在でもニッセンの著した伝記はもっとも古いものとして知られており、21世紀となった今でもなお、多くの音楽史学者が文献として彼の伝記を用いています。

妻のコンスタンツェがモーツァルトの妻であった歴史から、モーツァルト本人は伝記を残していませんので、伝記としての精度は実質世界一であると言えます。

1820年に仕事をやめ、ザルツブルクに移住し、モーツァルトの伝記の執筆に残りの人生をかけています。

その際モーツァルトが記したとされる約400通に及ぶ手紙を実姉マリア・アンナ・モーツァルトから提供されています。

ポイントもちろんこれもコンスタンツェの存在があって初めて手に入る資料であると言えるでしょう。
ニッセンは64歳で死去。
伝記は未完でしたが、ニッセンが遺したメモと資料に基づき、モーツァルトのファンであったドイツ人医師ヨハン・ハインリヒ・フォイアーシュタイン(Johann Heinrich Feuerstein) (1797年 – 1850年)が補完し、1829年に完成し発表されました。

二つに一つ

引用:Wikipedia

現在でも尋ねることができるニッセンのお墓。

そのお墓の墓碑には「モーツァルトの未亡人の夫」と記されています。

こんな不名誉な肩書があるでしょうか?

墓碑にすら記されているということは生前から「モーツァルトの未亡人の夫」というレッテルを貼られてい生きていいたものと想像できます。

それでもしたたかにモーツァルトの伝記をまとめて出版することを目標に執筆活動を続けていたのは、なぜでしょうか?

私たちが想像もできないくらいコンスタンツェを愛していたただただめっちゃ良い人 or 超ビジネスライクな男

の二つに一つだと思います。

みなさんはどちらだと思いますか?

  • 1797年にコンスタンツェと出会い、翌1798年から版権の売却を開始
  • ニッセンの人脈があったからこそ成立したであろう案件
  • 売却により莫大な資産を手に入れる
  • 仕事を早期に退官し、コンスタンツェの夫だからこそ手に入れることができる資料で伝記の執筆に専念

こういった事実から筆者はニッセンはかなりビジネスライクな人物ではないか?

という感想を抱きました。

ただ、後に音楽史学者ルース・ハリウェル(Ruth Halliwell)はニッセンの活動をその著書で「思いやりのある父の役割」を果たしたと評しています。

ニッセンがビジネス目的で近づいたか?

もしくは、コンスタンツェがニッセンの人脈目当てで近づいたか?

もしくはその両方か?

あるいは、ニッセンは本当に「ただただコンスタンツェを一途に愛し続けためっちゃ良い人」だったのか?

ニッセンとコンスタンツェが儲かったのは事実です。

ニッセンは1824年に亡くなり、その後コンスタンツェは1842年まで18年間未亡人でした。

1829年に発表されたとされるニッセンが書き残したモーツァルトの伝記の印税は当然コンスタンツェに入ってくるでしょう。

モーツァルトが1756年に誕生してから、数多くの人物が関わってきました。

この巨大ビジネスで一番儲けたのは一体だれなんでしょうか?

モーツァルト本人は資産がマイナスのまま死んでいきました。

死後一番儲けたのはやはりニッセンか?

それとも版権の売却益の取り分に加えて、ニッセンによる伝記の印税も13年間受け取り続けたコンスタンツェか。。。

はたまた版権を買い取って回していた貴族か王国か?

真相は誰にもわかりませんがみなさんは誰だと思いますか?

筆者はコンスタンツェに一票を投じてこのコラムを終わりにしたいと思います。

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アルゼンチンタンゴの英雄と言えばカルロス・ガルデル!
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カルロス・ガルデル(青いタンゴ礁へ移動)

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ヨーゼフ・ハイドン

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ビクトール・ラバジェン(青いタンゴ礁へ移動)

プロフィール

こうたろう
こうたろう
音大を卒業後ピアニストとして活動。
日本で活動後北欧スウェーデンへ。
アーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツ・ケルンに渡りAchim Tangと共にアルバム作品制作。
帰国後、金田式DC録音の第一人者:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入り。
独立後音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現:Kotaro Studio)」を結成。
タンゴやクラシックなどアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
大阪ベンチャー研究会にて『芸術家皆起業論~変化する社会の中、芸術家で在り続けるために』を講演。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにて『あなたのためのアートスタジオ』音と絵をテーマに芸術家として活動中。
2023年より誰かのための癒しの場所『Curanz Sounds』をプロデュース。

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