ルートヴィヒ・フォン・ケッヘル (モーツァルト関連人物)

Ludwig Alois Ferdinand Ritter von Köchel (ルートヴィヒ・アロイス・フェルディナント・リッター・フォン・ケッヘル)

1800年1月14日 – 1877年6月3日 (77歳没)

オーストリアの音楽学者、作曲家、植物学者、鉱物学者、教育者です。

年表

1800年1月14日

オーストリア・ニーダーエスターライヒ州のシュタインで生まれました。

モーツァルト没後から9年、ハイドンはまだ存命でベートーヴェンは難聴に苦しんでいた頃でした。

モーツァルト (Wolfgang Amadeus Mozart)

ヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn)

1816年

隣町クレムスのギムナジウムで最優秀の成績で卒業。

その後、ウィーン大学で法律を学んだ後、カール大公の財産管財人を務め、貴族の家の家庭教師となります。

さらにそこからその貴族の知合いである伯爵家の家庭教師へと出世します。

1827年

法学博士号を取得。

同年カール大公一家の家庭教師になります。

ケッヘルは大公の宮殿(現在のアルベルティーナ美術館)内に居住することになりました。

1842年

カール大公の子供たちが成長したのに伴い家庭教師の職を退職。

その際レオポルト騎士団勲章を授与され貴族に叙せられました。

翌年にはウィーン楽友協会の副総裁に選出。

1848年

革命で混乱するウィーンを離れテシェンに引越します。

1850年

ザルツブルクへ引っ越し。

モーツァルトの故郷ザルツブルクには1850年から1863年まで10年以上暮らし、モーツアルトの作品目録作成に取り組みました。

また鉱石学にも没頭し、『ザルツブルク公国の鉱石』(1859年)に結実します。

1851年

ケッヘルの友人フランツ・ローレンツから著作『モーツァルトのこと』が送られてきます。

刺激を受けたケッヘルは作品目録の作成を開始します。

完成した目録は1862年にブライトコップ社から『モーツァルト全音楽作品の年代別主題別目録 Chronologisch-thematisches Verzeichniss sämmtlicher Tonwerke Wolfgang Amade Mozart’s』として出版されました。

1852年

再びウィーンに戻り、ブライトコプフ社にモーツァルト全集の出版を要請するかたわら(ケッヘル没年の1877年にようやく刊行が開始される)、モーツァルト関連の小論を発表したり、ベートーヴェンの書簡集を編纂したり、オーストリアの宮廷音楽の歴史に関する本を出版するなど歴史のアーカイブな活動を行います。

1871年

ヨハン・ヨーゼフ・フックス研究の功績を讃えられてウィーン楽友協会の名誉会員になりました。

翌年作品目録を附録とするフックス伝を刊行。

1877年

ウィーンにて死去。

追悼式ではモーツァルトの『レクイエム』が演奏されました。

ケッヘル番号

ケッヘルが編集したモーツァルトの作品目録は、1761年に作曲された『クラヴィーアのためのメヌエット ト長調』から、絶筆の『レクイエム』までの626曲を作曲時代順に配列した目録。譜例、小節数、自筆譜・写譜・出版譜の有無・保管先などのデータが記載されています。

その際の通し番号が現在のケッヘル番号となっています。

この時代順目録よりも以前は、データを簡素化したジャンル別全作品目録がありました。

ブライトコップ社のモーツァルト全集は、このジャンル分けが採用されています。

表示方法

日本や英語圏では「交響曲第41番ハ長調 K. 551」のように表記されます。

本家ドイツ語圏ではKV 551と表記。

番号はK. 1からK. 626まであり、K. 626はモーツァルトの死によって未完に終わったレクイエムとなっています。

ポイント

ケッヘル番号を25で割り10を足すと、モーツァルトがその曲を作曲した年齢が概算できる。

均等のペースで作曲していたと仮定しただいたいの計算式となっています。

例えばK551 だと、551÷25+10=32.04歳となります。

Anh

ケッヘルによる初版では、紛失した作品や断片にはK. Anh. 56のような追加番号が当てられています。

例(「K. Anh. 56」は「ケッヘル・アンハング・56」と読む)。

最初の目録ではない!?

モーツァルトの作品目録は、ケッヘル以前にも存在していました。

一つはモーツァルト自身が作ったもの。

1784年以後死没直前までの176曲が収められています。

さらに、幼少期の作品については父レオポルトも作成しています。

この二つの作品目録には15年の空白期間があるのが残念な点です。

ケッヘルの目録がなければモーツァルト作品の多くが散逸してしまった可能性があるとも言われています。

こうたろう

服部 洸太郎

フォトグラファー&サウンドデザイナー
ミュージシャンだった父の音楽スタジオと、モデルだった母の仕事場であるフォトスタジオの現像ルームが子供時代の遊び場という恵まれた環境で育つ。
音楽大学を卒業後ピアニストとして活動を開始。
自身のピアノトリオで活動後単身ドイツ・ケルンへ渡独。
ケルンを拠点に活動するアーティストAchim Tangと共に「ピアノとコントラバスのためのソナタ」を制作。
ドイツから帰国後ピアノソロ作品アルバムと共に同時リリース。
金田式電流伝送DC録音の第一人者である五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入り。
独立後、音楽プロデューサーとして音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現在はKotaro Studioに統合)」を立ち上げ、タンゴやクラシックを中心としたアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加し、本格的に写真、映像技術を学ぶ。
現在は元ピアニストの経験を生かしたミュージシャンのライブフォトを得意としながら、肖像写真、動物写真、自然写真を中心にミュージックビデオの制作などオーディオ技術も得意とするフォトグラファーとして活動中。