ジョン・メイナード・ケインズ (John Maynard Keynes)

※この記事は2020年10月2日に更新されました。

引用:Wikipedia

1883年6月5日 – 1946年4月21日 (62歳没)。

イギリスの経済学者、官僚、貴族。

イングランド、ケンブリッジ出身で20世紀における最重要人物の一人であり経済学者の代表的存在です。

年表

1883年

ケインズは、ケンブリッジ大学の経済学者であるジョン・ネヴィル・ケインズと母フローレンスとの間に生まれます。

1905年 (22歳)

キングス・カレッジ (ケンブリッジ大学)を卒業。

数学で学位を取得します。

1908年 (25歳)

ケンブリッジ大学で貨幣論を研究。

1912年 (29歳)

エコノミック・ジャーナル誌編集長に就任。

1915年 (32歳)

大蔵省に勤務。

1919年 (36歳)

パリ講和会議に大蔵省首席代表として参加、対独賠償要求に反対して辞任。

「平和の経済的帰結」を発表。

1921年 (38歳)

『確率論』発表。

1923年 (40歳)

『貨幣改革論』発表。

1925年 (42歳)

『チャーチル氏の経済的帰結』発表。

1926年 (43歳)

『自由放任の終わり』発表。

1930年 (47歳)

『貨幣論』発表。

1936年 (53歳)

『雇用・利子および貨幣の一般理論』を発表。

1941年 (58歳)

イングランド銀行理事に就任。

1942年 (59歳)

ケインズ男爵位を受爵。

1946年 (63歳)

心臓発作で倒れ、サセックス州ファールで4月21日没する。

両親はケインズよりも長生きしています。

父親のジョン・ネヴィル・ケインズ(1852–1949)はケインズの死から3年後に死亡。

母親のフローレンス・エイダ・ケインズ(1861–1958)はケインズの死から12年後に死亡。

投資家として

ケインズは投資家としても成功を収めています。

株式価格形成の問題を、当時の新聞で行われていた美人コンテスト(美人投票)を例えとし、個々の判断での投資よりも集団の好みを考慮すべきであると説明しています。

ケインズは、独自の投資法を行なっていたといわれています。

朝起きてベッドの中で新聞の金融情報を読み、電話取引を行うだけというものであった。

当初の投資成績は順調ではなく、1929年の大恐慌までは散々な結果だったそうです。

大恐慌では・・・

1929年の大恐慌は、ケインズでも予想することはできず、暗黒の木曜日の時点では金融資産の約8割を株式に集中投資していたといわれています。

しかし、1933年からのケインズは中小型の割安株に集中投資するバリュー投資で成功しました。

私生活

ケインズは同性愛者で、1910年頃に画家のダンカン・グラントと同棲しています。

ケインズのメモには、1901年から1915年まで関係を持った相手とのリストが残されています。

ケインズは1925年にロシア人バレリーナのリディア・ロポコワと結婚しました。

思想やジャーナリズム

ケインズは優生学の支持者でした。

キャリアの最初期から優生学に興味をもち、1937年から1944年までイギリス優生学協会(英語版)の理事も務めています。

1946年の講演では、優生学を社会学で最も重要な分野と述べています。

また、ヴェルサイユ会議では大蔵省主席代表として出席。

ドイツ経済からは到底負担しきれない巨額賠償に反対して辞任します。

ケインズの考えは当時の政策担当者・諸国民から強烈な批判をあびることになります。

しかし、この巨額賠償がきっかけに台頭したナチス・ドイツとそれに伴う第二次世界大戦の勃発によってヴェルサイユ体制は崩壊しました。

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