本間宗久 (ほんま そうきゅう)

※この記事は2020年9月24日に更新されました。

1718年 – 1803年 (87歳没)

※Wikipediaに誤記の可能性あり。

出羽庄内(現在の山形県酒田市)出身、江戸時代の米商人です。

酒田人名録では本間古作。

通称を久作。

酒田・大坂・江戸での米の商いで莫大な富を得たとされています。

後に米沢藩の上杉鷹山を補佐した酒田の豪商・本間光丘は甥にあたります。

大坂・堂島の相場師牛田権三郎と並び称されています。

経歴

1718年

出羽庄内(現在の山形県酒田市)で生まれる。

江戸へ

16歳で吉宗将軍の江戸へゆき見聞を得ます。

帰省後、米相場での投機を父に進言するが「商いの正道ではない」と受け入れられませんでした。

その後酒田を出た久作は江戸で米相場の投機を行うが失敗し破産します。

失意の中で帰郷した久作は体勢を立て直し、次に当時江戸よりも巨大と言われた大阪市場で再度投機を行います。

大阪の米相場では江戸の失敗を材料に才能を発揮。

「出羽の天狗」と称されていました。

50歳になった久作は、名を宗久と改め江戸へ移住します。

ここでも相場に成功。

その後江戸で新潟屋の現物米とあわせて諸藩に貸付を行い莫大な財産を手にしました。

その活躍ぶりは、『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』

といった唄が流行るほどだったそうです。

妻は新堀村加藤勘右衛門の娘。

子がなかったため妻の兄弟を養子にしました。

ローソク足の考案者

本間宗久はローソク足の考案者であると言われています。(諸説あり)

宗久の経験したじゃじゃ馬米相場

1783年。

浅間山が大噴火を起こしました。

これを機に天明の大飢饉が発生し、経済、政治ともに大混乱の時代を迎えることになりました。

当然米相場にも凄まじい大打撃が起こります。

同時期に活躍した相場師:山片 蟠桃(やまがた ばんとう)はこのように記録しています。

「天明3年5月末かたより、信州浅間の丘常ならず。炎上つよく地中雷鳴し日々甚だしくなりて、6月末にいたりていよいよ強く、7月5日より黒焔雲をつき、雷電空にはためき、焔中の炎赤くなりて、もゆる石むらがり降り、雨とおぼゆるは灰と砂なり。・・・近国はみな灰ふりて、加・能・越及び関八州・陸奥に到るまで、毛のごときもの多くふりけり。上野より武・総・常の国々、利根川すじ人畜家財押し流して、いやが上に重なりて海口へ流れ出る。・・・この秋、灰のふりたる国々に限らず、その余の諸国も大いに飢饉す」

日本思想体系:山片 蟠桃

この時の米相場の数字が残っていますので確認してみましょう。

浅間山大噴火時の米相場

年号米価出来事
1781年(天明1年)3.71
1782年(天明2年)4.70
1783年(天明3年)5.68浅間山大噴火・大飢饉勃発
1784年(天明4年)6.99
1785年(天明5年)4.48
1787年(天明7年)9.19大雨・大洪水
引用:テクニカル分析大全

大飢饉を経て、大雨大洪水と災害もあり、たった5年~6年の間に米の価格は3倍近く高騰していきました。

この激動の相場変動時期に宗久は莫大な利益を得たと言われています。

いつの時代もピンチをチャンスに。

市場のファンダメンタルズ分析は大切なんですね。

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山片 蟠桃(やまがた ばんとう)