本田宗一郎 (ほんだ そういちろう)

※この記事は2020年10月10日に更新されました。

本田 宗一郎

1906年(明治39年)11月17日 – 1991年(平成3年)8月5日 (84歳没)

日本の実業家、技術者。

輸送用機器メーカー本田技研工業(通称:ホンダ)の創業者。

本田技研工業

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年表

1906年(明治39年)

11月17日、静岡県磐田郡光明村(現・浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻・みかの長男として誕生。

1913年(大正2年) (7歳)

光明村立山東尋常小学校(現・浜松市立光明小学校)に入学。

この時、生まれて初めて自動車を見ます。

1922年(大正11年) (16歳)

高等小学校卒業後、自動車修理工場「アート商会」(現:アート金属工業)に入社。

半年間は、社長の子供の子守りばかりだったと言われています。

1928年(昭和3年) (22歳)

アート商会に6年勤務後、のれん分けで浜松市に支店を設立し独立。

1935年(昭和10年) (29歳)

小学校教員の磯部さちと結婚。

1936年(昭和11年) (30歳)

第1回全国自動車競走大会に、フォードに自作のターボチャージャーをつけたマシンで弟の弁二郎とともに出場。

しかし事故により負傷しリタイアとなります。

1937年(昭和12年) (31歳)

自動車修理工場事業を順調に拡大、「東海精機重工業株式会社」(現:東海精機株式会社)の社長に就任。

学問的な向上心から浜松高等工業学校(現:静岡大学工学部)機械科の聴講生となり、3年間金属工学の研究に費やします。

1939年(昭和14年) (33歳)

アート商会浜松支店を従業員の川島末男に譲渡。

東海精機重工業の経営に専念する。

1942年(昭和17年) (36歳)

長男・博俊(元「無限」代表取締役)誕生。

豊田自動織機が東海精機重工業に出資、自らは専務に退きます。

1945年(昭和20年) (39歳)

三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。

所有していた東海精機重工業の全株を豊田自動織機に売却して退社、「人間休業」と称して1年間の休養に入る。

1946年(昭和21年) (40歳)

10月、浜松市に本田技術研究所 (旧) 設立。

本田宗一郎は所長に就任。

1948年(昭和23年) (42歳)

二男・勝久誕生。

本田技研工業株式会社を浜松に設立。

資本金100万、従業員20人でスタート。

二輪車の研究を始める。

ポイント

従業員からは親しみをこめて「オヤジさん」と呼ばれていました。

一方でともに仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」と述べています。

作業中、中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、激怒して灰皿で殴ったりしていたと言われています。

しかし、殴られた者よりも殴った宗一郎の方が泣いていたこともあった。

(怒る際)「人はよく、かわいいからこそ怒るなんて言うが、おれはそうじゃない。そのときはほんとに憎たらしくなる。なぜなら、おれたちのつくる商品は人命にかかわるものなんだ。それをないがしろにする人間は絶対に許せない」と言ったと言われています。

1949年(昭和24年) (43歳)

のちにホンダの副社長となる藤沢武夫と出会い、ともにホンダを世界的な大企業に育て上げる。

ポイント

会社のハンコを藤沢武夫に預け、経営もすべて任せていました。

本田自身は技術部門に専念し、社印も実印も見たことがなかったそうです。

のちに「藤沢がいなかったら会社はとっくのとうに潰れていた」と述べており、藤沢も「本田がいなければここまで会社は大きくならなかった」と述べています。

両者とも「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっていたため身内を入社させなかったそうです。

宗一郎は社名に個人の姓を付したことを後悔していました。

1973年(昭和48年) (67歳)

中華人民共和国を訪れた帰国直後の会見で、本田技研工業社長を退き、取締役最高顧問に就任することを発表。

1983年(昭和58年) (77歳)

取締役も退き、終身最高顧問となる。

1989年(平成元年) (82歳)

アジア人初のアメリカ合衆国の自動車殿堂入りを果たす。

1991年(平成3年) (84歳)

8月5日、東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。

84歳没。

名言ピックアップ

失敗が人間を成長させると、私は考えている。
失敗のない人なんて、本当に気の毒に思う。

本田宗一郎

伸びる時には必ず抵抗がある。

本田宗一郎

新しいことをやれば、必ず、しくじる。
腹が立つ。
だから、寝る時間、食う時間を削って、何度も何度もやる。

本田宗一郎

成功は99%の失敗に支えられた1%だ。

本田宗一郎

成功者は、例え不運な事態に見舞われても、この試練を乗り越えたら、必ず成功すると考えている。
そして、最後まで諦めなかった人間が成功しているのである。

本田宗一郎

竹にはフシがある。
そのフシがあるからこそ、竹は雪にも負けない強さを持つのだ。
企業にもフシがある。
儲かっている時はスムーズに伸びていくが、儲からん時がひとつのフシになる。
このフシの時期が大切なのだ。
私はフシのない企業は、どうも不安で見ていられないような気がする。

本田宗一郎

飛行機は飛び立つときより着地が難しい。
人生も同じだよ。

本田宗一郎

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