Johann Ernst Hartmann
1726年12月24日 – 1793年10月21日 (67歳没)
ヨハン・ハートマン
1726年Głogów生まれのバイオリニスト。
彼の両親は不明で、どこで教育を受けたかも資料が少なくわかっていません。
ルドルシュタットという小さな町でコンサートマスターとして活躍。
コペンハーゲンへ移住
コペンハーゲンでは彼は大変歓迎されました。
すぐにロイヤルチャペルでバイオリニストとして雇われ、クリスチャン7世の音楽教師となり、1768年にコンサートマスターに昇進します。
ハートマンは、コペンハーゲンに到着する以前から、室内楽アンサンブルと小さなオーケストラのための器楽曲をハイドンに贈るため作曲しています。
ハートマンの音楽作品は当時国王によって購入され、火事の直前に城に保管されていたため、1794年のクリスチャンスボーの火事でほとんど焼失してしまいました。
私生活&人物像
ハートマンは誠実で謙虚な芸術家でした。
ハートマンの息子の2人がミュージシャンになっています。
作品
- Sørgekantate ved hertug Friedrich Karl af Plön’s død (1761)
- Simfonie Periodique i D-dur (trykt 1770)
- Sinfonie Nr. 2 G-dur
- Sinfonie Nr. 3 D-dur
- Balders død (syngespil 1779)
- Kantate i anledning af Københavns Universitets 300 års jubilæum (1779)
- Fiskerne (syngespil 1780)
- Violinkoncert (sammen med Claus Schall 1780)
- Hyrdinden på Alperne (syngespil 1783)
- Sørgemusk ved Ludwig Harboes død (1883)
- Den blinde i Palmyre (syngespil (1784)
- Høytidssange (soli, kor og orkester 1787)
- Gorm d. Gamle (skuespil 1785)
- Kantate til Prinsesse Louise Augustas Formæling med Prinsen af Augustenborg (sammen med 1786)
- Jesu Dødsangst i Urtegaarden (passionsmusik 1793)
- Forløserens død (kantate 1783)
- mindst 12 symfonier (hvoraf dog kun 4 er bevarede)
- Liden Gunver vandre som helst i Kvæld
- Sonater for 2 Violiner og Bas
日本語
- プレンのフリードリヒ・カール公の死にカンタータを悼む(1761)
- 交響曲のハ長調(1770年に印刷)
- 交響曲番号 2 Gメジャー
- 交響曲番号 3 Dメジャー
- バルダーの死(歌のゲーム1779)
- コペンハーゲン大学300周年(1779)の際のカンタータ
- 漁師(歌うゲーム1780)
- ヴァイオリン協奏曲(クラウスシャル1780)
- アルプスの羊飼い(歌劇1783)
- ルートヴィヒハーボーの死で悲しむムスク(1883年)
- パルミアのブラインド(歌うゲーム(1784)
- 休日の歌(ソロ、合唱、オーケストラ1787)
- Gorm d。Gamle(1785年にプレイ)
- オーガステンボー王子とのルイーズオーガスタ王女の朗読のためのカンタータ
- ウルテガーデンでのイエスの死への恐怖(パッションミュージック1793)
- 贖い主の死(cantata 1783)
- 少なくとも12の交響曲(そのうち4つだけが保持されます)
- リトルガンバーは夕方どこでも歩く
- 2つのヴァイオリンとベースのためのソナタ
※↓↓↓外部リンク↓↓↓(Youtube)
Symphony no. 3 in D major. Concerto Copenhagen – Lars Ulrik Mortensen.

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服部 洸太郎
音大を卒業後ピアニストとして活動。
自身のピアノトリオで活動後北欧スウェーデンにてシンガーアーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツへ渡りケルンにてAchim Tangと共に作品制作。
帰国後、金田式電流伝送DC録音の名手:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入りし、録音エンジニアとしての活動開始。
独立後、音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現在はKotaro Studioに統合)」を立ち上げ、タンゴやクラシックなどのアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、介護で使えるプログラムをM5Stackを使って自作。
株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにてアルゼンチンタンゴをはじめとした民族音楽に関する文化の研究、ピアノ音響、さらに432hz周波数を使った癒しのサウンドを研究中。
スタジオでは「誰かのためにただここに在る」をコンセプトに、誰がいつ訪れても安心感が得られる場所、サイトを模索中。