- 歴代当主
- エステルハージ・ニコラウス(1583年 – 1645年)
- エステルハージ・パール(1635年 – 1713年)
- エステルハージ・ミヒャエル(1671年 – 1721年)
- エステルハージ・ヨージェフ・シモン・アンタル(1688年 – 1721年)
- エステルハージ・パール・アンタル(1711年 – 1762年)(ハイドン関連時期)
- エステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフ(1714年 – 1790年)(ハイドン関連時期)
- エステルハージ・アンタル(1738年 – 1794年)(ハイドン関連時期)
- エステルハージ・ミクローシュ(1765年 – 1833年)(ハイドン関連時期)
- エステルハージ・パール・アンタル(1786年 – 1866年)
- エステルハージ・ニコラウス・パール(1817年 – 1894年)
- エステルハージ・パール・アンタル・ニコラウス(1843年 – 1898年)
- エステルハージ・ニコラウス・パール(1869年 – 1920年)
- エステルハージ・パール・ヴィクトール(1901年 – 1989年)
- エステルハージ・アントン・ルドルフ(1936年 -)
- エステルハージ・パール・アントン・ニコラウス・マキシマム(1986年 -)
- 関連音楽家

エステルハージ家(ハンガリー語: Eszterházy család, ドイツ語: Haus Esterházy)は、中世から続くハンガリーの貴族。
いくつもの分家があります。
17世紀からハプスブルク帝国、オーストリア=ハンガリー帝国末まで、ハンガリー王国最大の大地主であり、事業家でした。
一族は、エステルハージ・ニコラウス伯爵(1583–1645)と息子のエステルハージ・パール(1635–1713)侯爵の代で台頭していきます。
歴代当主
エステルハージ・ニコラウス(1583年 – 1645年)
ガランタで生まれ。
プロテスタントとして育ち、のちにカトリックに改宗しました。
1626年に皇帝から伯爵に叙され、二度の結婚で莫大な富を得ることになります。
エステルハージ・パール(1635年 – 1713年)
パールは初代当主ニコラウスの3男として、アイゼンシュタットで生まれました。
彼は詩人でありチェンバロ演奏者であり、作曲家でもありました。
カンタータがいくつか残されています。
エステルハージ・ミヒャエル(1671年 – 1721年)
パールの息子。
彼の代からエステルハージ家はアイゼンシュタットに本格的に邸宅を構え、アイゼンシュタットは地方の音楽の拠点地として栄えることとなります。
エステルハージ・ヨージェフ・シモン・アンタル(1688年 – 1721年)
ミヒャエルの異母兄弟。在位はわずか11週。
息子のパール・アンタルはまだ10歳だったので、ゲオルク・エトヴェシュ伯爵[4]と未亡人マリア・オクターヴィア(Maria Octavia、1686年頃 – 1762年)が後見人についています。
エステルハージ・パール・アンタル(1711年 – 1762年)(ハイドン関連時期)
ヨージェフの息子。
若い頃はオランダのライデン大学に留学し、兵役に奉仕し、元帥までのぼりつめました。
1750年から1752年まで帝国大使としてナポリに駐留し、各国を旅しています。
パール・アンタルは音楽のよき理解者でした。
自らヴァイオリン・フルート・リュートを演奏し、膨大な楽譜の写本目録を完成させています。
パトロンとしても、西洋音楽史に重要な役割を果たしています。
1728年、彼の母親であるマリア・オクターヴィアは、作曲家グレゴール・ヨーゼフ・ヴェルナーを一族の宮廷楽長として雇い、ヴェルナーは数十年間一族の楽長を務めました。
後の1761年、高齢であったヴェルナーの補佐に、フランツ・ヨーゼフ・ハイドンを副楽長として雇うことになります。
同時に、パール・アンタルはハイドンの下に様々な楽器の名手を雇い入れて、自前のオーケストラの質を上げました。
ヨーゼフ・ハイドン (Franz Joseph Haydn)
エステルハージ・ミクローシュ・ヨージェフ(1714年 – 1790年)(ハイドン関連時期)
ヨージェフの息子であり、パール・アンタルの弟になります。
ハイドンの重要なパトロンであり、エステルハージ宮殿を建てた人物です。
エステルハージ・アンタル(1738年 – 1794年)(ハイドン関連時期)
ミクロージュ・ヨージェフの息子。
彼が侯爵の間、エステルハージ楽団は解散していました。
エステルハージ・ミクローシュ(1765年 – 1833年)(ハイドン関連時期)
アンタルの息子。
ミクローシュはクラリネットをたしなんでおり、彼の肖像画の一つから明らかにされている。
1809年、ナポレオン・ボナパルトはミクローシュに、独立したハンガリーの国王にならないかともちかけました。
ミクローシュはナポレオンの誘惑を断り、ナポレオンに惨敗を喫したハプスブルク家皇帝フランツ2世の救出に助力しています。
彼の業績は、1811年に起こった金融危機の被害を最小限に食い止めたことです。
エステルハージ・パール・アンタル(1786年 – 1866年)
ミクローシュの息子。
様々な国で外交官として勤め、1848年に短期間ではあるが外務大臣の地位に就いています。
エステルハージ・ニコラウス・パール(1817年 – 1894年)
1873年5月9日のブラックフライデーに、ウィーン証券取引所の株式価格は下落し暴落史の1ページを記録しています。
エステルハージ・パール・アンタル・ニコラウス(1843年 – 1898年)
エステルハージ・ニコラウス・パール(1869年 – 1920年)
エステルハージ・パール・ヴィクトール(1901年 – 1989年)
エステルハージ・アントン・ルドルフ(1936年 -)
現在のエステルハージ家家長。
エステルハージ・パール・アントン・ニコラウス・マキシマム(1986年 -)
1986年ミュンヘン生まれ。
侯爵位は今日のハンガリーでは法的根拠がなく、貴族の称号も1947年に廃止されています。
オーストリアでも、1919年に貴族の称号は廃止となっています。
関連音楽家
フランツ・リスト
リストの父:アダム・リスト(Adam Liszt)1776年12月16日 – 1827年8月28日)は、ハンガリーのアマチュアピアニスト、チェリスト。
プレスブルク大学で哲学を学んでいましたが、経済的事情により挫折。
自活の必要に迫られ、1798年、フラクノー(現在のフォルヒテンシュタイン)にあったエステルハージ家の荘園の執事となりました。
余暇にはハイドンの後継者であるヨーハン・ネポムク・フンメルの楽団でチェロを演奏し、ケルビーニやベートーヴェンなど、アイゼンシュタットに来演した多くの音楽家たちと共演する機会に恵まれました。
しかし1809年、約5万頭に及ぶヒツジの群れの監督官としてライディングの荘園に移されます。
ライディングはアイゼンシュタットから50キロ足らずしか離れていなかったが、かなりの田舎町でした。
1811年10月22日、夫妻の唯一の子であるフランツが誕生。
アダムはリスト誕生後は度々自宅で室内楽演奏会を開いています。
アイゼンシュタットから旧知の音楽家を招いたこともあり、フランツはそうした音楽的環境の中で成長していきました。
6歳のフランツが音楽の才能を見せた時、アダムはフランツの最初のは音楽教師となりました。
アダム自身は、息子フランツに一流の音楽教育を受けさせてやれるほどの経済的余力はありませんでしたが、彼の奔走により、ハンガリーの貴族たちの援助を得ることに成功。
アダムは50歳のときにフランス北部のブローニュ=シュル=メールで死去。
そのときフランツは15歳でした。
フランツ・ペーター・シューベルト
Franz Peter Schubert。
1797年1月31日 – 1828年11月19日
オーストリアの作曲家。
各分野に名曲を残し、とりわけドイツ歌曲において功績が大きく、歌曲の王と呼ばれることもあります。
わずかな期間ですが、エステルハージ家で音楽教師をしていたことがあります。
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音大を卒業後ピアニストとして活動。
日本で活動後北欧スウェーデンへ。
アーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツ・ケルンに渡りAchim Tangと共にアルバム作品制作。
帰国後、金田式DC録音の第一人者:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入り。
独立後音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現:Kotaro Studio)」を結成。
タンゴやクラシックなどアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
大阪ベンチャー研究会にて『芸術家皆起業論~変化する社会の中、芸術家で在り続けるために』を講演。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにて『あなたのためのアートスタジオ』音と絵をテーマに芸術家として活動中。
2023年より誰かのための癒しの場所『Curanz Sounds』をプロデュース。
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