Carlos Gardel (カルロス・ガルデル)

タンゴの著名人たちを紹介アルゼンチンタンゴの有名人をブエノスアイレスでタンゴピアニストとして活躍する日本人ピアニスト大長志野がピックアップしてご紹介。
名曲解説などともリンクしていますので、是非タンゴの世界を覗いてみてください!

Carlos Gardel, 1890年12月11日? – 1935年6月24日(44歳没)

人物像

ガルデルの出生地は諸説があります。

幼少時にフランスからアルゼンチンに移民したという説や、アルゼンチン出生説、また、ウルグアイのタクアレンボー出生説があります。

ガルデルのプロ・デビューは1911年と言われています。

1917年に初めて歌った『ミ・ノーチェ・トリステ』 Mi noche triste (わが悲しみの夜)によって本格的なタンゴ歌唱を確立しました。

ガルデルは、バルセロナ、パリ、ニューヨーク、ウルグアイ、チリ、ブラジル、プエルトリコ、ベネズエラ、コロンビアなど各地に演奏旅行を積極的に行い、アルゼンチンに戻ってもすぐに出発する活躍ぶりから、アルゼンチンでは『偉大なる渡り鳥』というニックネームで呼ばれていたそうです。

ガルデルは俳優としても活躍しています。

映画にも多数出演し、出演する映画の中では必ず歌を披露しています。

不運な事故

1935年、ガルデルはニューヨークでの映画撮影を終え、アルゼンチンへ。

アルゼンチンにたどり着く道中にあたる南米諸国で、映画宣伝を兼ねたコンサートを催しながら、コロンビアまでたどり着きます。

しかし、コロンビアのメデリン空港から飛び立とうとしたガルデルの乗る飛行機は不運にも離陸に失敗・・・

失速して墜落炎上し、ガルデルは44歳という若さで焼死してしまいました。

こちらはガルデルが乗っていた飛行機の事故の残骸です。

ガルデルのタンゴ界への影響力

1917年にガルデルが「Mi nocha triste」ミ・ノーチェ・トリステ(私の悲しい夜)を発表したときに、「私はタンゴをこうやって歌っていく!」ということを歌って示し、それが、後のタンゴの歌唱法・表現法となり、ガルデルの表現法がタンゴ業界の道しるべの一つとなりました。

同時に、ガルデルはオーケストラ(器楽)に対しても、道しるべの役割を担っていくことになります。

ガルデルは歌い方はもちろんのこと、レパートリーの選び方、さらには、どのようなアプローチでギターに伴奏させるかなどについて、非常によく考えられていました。

オルケスタのリーダーたちは、自分たちが演奏するときはいつも、ガルデルの歌唱法との組み合わせをイメージしていました。

例えばあの偉大なアニバル・トロイロでさえも、ガルデルを尊敬しており、「「Yo quiero que mi orquesta cante como Gardel.」ジョ・キエロ・ケ・ミ・オルケスタ・カンテ・コモ・ガルデル私は、自分のオーケストラにはガルデルのように歌ってほしい。」と言っているほどです。

自身の楽団にはガルデルのようなサウンドが欲しかったのです。

ガルデルの持つリズム力・強さ・エネルギーが、備わってほしかったわけです。

→アニバル・トロイロとは?!

ディ・サルリやプグリエーセもガルデルを意識していました。

ガルデル自身の変化

ガルデル自体もしっかりと歌唱法などにアレンジを加えて進化していっています。

例えばガルデルが録音したMi noche triste の1917版と1930年版は全く違う歌い方をしているのがよくわかると思います。

こちらが先ほども紹介した1917年版

そしてこちらが1930年版

ガルデルはタンゴの歴史と、スタイルの発展に寄与した極めて重要な歴史的人物だといえるのではないでしょうか。

エピソード

ブエノス・アイレス地下鉄(Subte)・B線にはガルデルを記念した「カルロス・ガルデル」駅がコリエンテス通り(Av. Corrientes)に存在し、ホームの壁にはガルデルを描いたイラスト類が飾られており、駅の近隣には「カルロス・ガルデル博物館(Museo Casa Carlos Gardel)」があります。

Museo Casa Carlos Gardel

Kotaro
Kotaro
服部 洸太郎
音大を卒業後ピアニストとして活動。
自身のピアノトリオで活動後北欧スウェーデンにてシンガーアーティストLindha Kallerdahlと声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後ドイツへ渡りケルンにてAchim Tangと共に作品制作。
帰国後、金田式電流伝送DC録音の名手:五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入りし、録音エンジニアとしての活動開始。
独立後、音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現在はKotaro Studioに統合)」を立ち上げ、タンゴやクラシックなどのアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
その後、秋山庄太郎氏後継の写真スタジオ「村上アーカイブス」でサウンドデザイナー兼音響担当として映像制作チームに参加。
村上宏治氏の元で本格的に写真、映像技術を学ぶ。
祖父母の在宅介護をきっかけにプログラムの世界に興味を持ち、介護で使えるプログラムをM5Stackを使って自作。
株式会社 ジオセンスの代表取締役社長:小林一英氏よりプログラムを学ぶ。
現在はKotaro Studioにてアルゼンチンタンゴをはじめとした民族音楽に関する文化の研究、ピアノ音響、さらに432hz周波数を使った癒しのサウンドを研究中。
スタジオでは「誰かのためにただここに在る」をコンセプトに、誰がいつ訪れても安心感が得られる場所、サイトを模索中。