名曲解説などともリンクしていますので、是非タンゴの世界を覗いてみてください!

タンゴのピアニスト、作曲家、ディレクターのカルロス・ディ・サルリ (1903年1月7日ー1960年1月12日(57歳没))は“セニョール・デル・タンゴ”「タンゴの紳士」 と呼ばれていました。
生い立ち

ディ・サルリは、アルゼンチン南部の港町バイア・ブランカで
イタリア系移民(イタリア系アルゼンチン人)の子として生ました。
音楽に対して非常に関心と理解のある家庭で育ち、
子どもの頃からピアノを学んでいました。
当初彼はクラシック音楽を志向してピアノを学び始めます。
13歳のとき、彼の音楽教師と父との間で揉め事が起き、レッスンを中断し、
アルゼンチンの様々な場所に、ポピュラー音楽とタンゴ音楽を演奏するツアーの仕事を引き受けます。
しばらくして、彼はラ・パンパ州のサンタ・ローサの映画喫茶店にて
ソリストとしてデビューします。
ラ・パンパ州と言えば、ニコラス・レデスマの出身地です。
実は子どものときに銃の暴発で、目の周辺を傷付けてしまったのでサングラスをするようになったといわれています。
1923年20歳でブエノスアイレスの街に移住。
そのころ彼は、ブエノスアイレスの警察バンドのディレクターで
ディ・サルリ家の親戚であるミュージシャンのアルベリコ・スパトラとつながり、バンドネオンプレーヤーアンセルモ・アイエタと連絡を取り自分のグループに入らないか交渉します。
当時とても人気があり、「ピチカートの王」とも呼ばれたバイオリニストのフアン・ペドロ・カスティージョも仲間入りすることになります。
さらにタンゴ「カナロ・エン・パリス」(Canaro en Paris ) で定評のある作家、アレハンドロ・スカルピーノも加わった。
その後、キャバレー・チャンテクレールで6重奏でデビューしましたが、
オーナーとのトラブルが続出し、長続きしませんでした。
バイオリニストのホセ・ペコラを介して、オスヴァルド・フレセドとつながり、フローレス地区のフェニックス劇場を自身のオーケストラで幕開けさせました。
1927年の終わりに、彼は
・バイオリン : ホセ・ペコラとデビッド・アブラムスキー
・バンドネオン :アドルフォクラウス、 セザール・ジンゾとティト・ランド、コントラバス:アドルフォ・クラウス
のメンバーで最初の六重奏を結成します。
さまざまな喫茶店で演奏し、翌年にはRCA-Victorと契約しました。
当時ある記者は彼のことをこのように綴っています。
「誰も彼のように、タンゴのリズミカルなリズムを調和の取れた和音と、また単純に見えるけれど、ダイナミックスかつ巧妙な作法と組み合わせる方法を知りませんでした。彼は彼の時代にあった2つのどちらの流派にも属していませんでした。 ロベルト・フィルポやフランシスコ・カナロ風の伝統的なオーケストラではなく、また時代をあたらに開拓する信奉者でもありません。」
記者
1932年にはアントニオ・ロドリゲス・レセンデが彼のバンドの専属歌手として参加します。
ディ・サルリ楽団の終わりと復活
数年後、ディ・サルリは何らかの理由により、オーケストラを去ることになりました。
六重奏はディ・サルリなしで演奏し続けていましたが、
しばらくの間名前はそのままにディ・サルリ楽団と名乗っています。
その後、喫茶店ノベルティでの公演の後、楽団名がノベルNovel オーケストラと改名されます。
ディ・サルリがオーケストラを再び組織し始めたのは1938年の終わり35歳の頃でした。
1939年1月にラジオエルムンドで再デビューすることになります。
ディ・サルリ黄金期
1939年12月11日、彼はロベルト・ルフィーノが歌う「エルレティーロ」「コラソン」とともに、ビクターレーベルのレコーディングスタジオに戻ります。
その時期はディ・サルリの栄光の時期でした。
ディ・サルリの成功は不動のものとなり、ディ・サルリの死ぬその時まで、人気は変わりませんでした。
ディ・サルリは1951年11月から1953年4月まで、
ミュージックホールのレーベルで84曲を録音。
1954年6月から1958年まで再びビクターレーベルにて録音。
ディ・サルリの最後のレコーディングは14曲で、1958年にフィリップスレーベルに残されています。
ディ・サルリのスタイルとは?!
彼のオーケストレーションは、それぞれの楽器のソロはほとんどなく、バンドネオンがメロディーラインを歌うこともありましたが、本質的にはリズミカルでミロンゲーロの役割を果たしていました。
バイオリンが、非常に繊細な方法で、短いソロや対旋律で際立っていました。
「ボルドネオ」というマエストロの特徴となるリズムの取り方で、ピアノは示唆的に指揮をとり、小節をつなぎ合わせ、特にダンスを意識して繊細でエレガントなリズムを強調していました。
ディ・サルリの六重奏曲はオスバルド・フレセドの影響を受けていると言われています。
「ミロンゲロ・ビエホ(フレセド)」というタイトルのディ・サルリが尊敬する友でもあるフレセドに捧げた曲があります。
しかし全く違う両者の演奏スタイルなので、捧げた曲にも関わらずフレセドの演奏スタイルとは真逆の描写となっています。
おすすめのアルバム

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大長 志野
2011年より南米アルゼンチン・ブエノスアイレスで生活。
現地のタンゴシーンで数々の作品に携わり、作品をリリース。
ブエノスアイレスではタンゴ楽団Barrio Shinoを結成して活動。
2018年には同バンドにてアルゼンチンタンゴの巨匠:ロベルト・アルバレスをゲストに迎えた「Festejando」をリリース。
2021年より正式にアルゼンチンへ移住し、現地のタンゴシーンでタンゴピアニスト兼アレンジャーとして活躍。
Kotaro Studioにて写真撮影、録音技術 & 映像、音響編集技術講座を修了し2022年よりスタジオ内ブログにてカメラやマイクの初心者向けの記事の更新や動画のカラーグレーディングも担当。
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