スタジオジャーナル第6回 『クリエーターのための考察』なぜ最近のドラマは面白くなくなったのか?!

いえ、面白いです。

面白いですよ。

決して最近のドラマをディスった記事ではないので誤解なきようお願いします。

こんにちは!

こうたろうです。

本日は新旧ドラマや映画についての比較考察ということで、写真や映像表現について真面目に考察する回としたいと思います。

よく「昔のドラマは良かった」「リメイク版はダメだ」なんてお言葉、耳にすることはありませんか?

もちろん単なる懐古主義的な発言である場合もあるでしょうが、これから先10代や20代の若いクリエーターはもちろん、筆者のようにギリギリアナログとデジタルの狭間で産まれた世代もそれぞれがしっかりと考察していくことでより作品に深みが出るのでは?!

との思いから考察をシェアしていきたいと思います。

GTOの新旧比較動画

さて、突然ですが、GTOをご存知でしょうか?

元暴走族の教師がこれまでの学園ものとは違った角度で生徒と交流を深めていく作品。

反町隆史さんの主演バージョンである1998年版とAKIRAさん主演の2012年版があります。

コメント欄を拝見しても、1998年版を賞賛する声が多数見受けられます。

確かに筆者も個人的には1998年版の方が見ていて面白いし、何回も見たいと思えますし、内容をしていても、再放送でも飽きずに見れるのは1998年版だな。。。と感じます。

ただ、感じるだけで終わってしまってはクリエーター失格ですよね。

なぜ多くの人が1998年版の方が「良い」と感じるのか?

なぜ1998年版の方は飽きないのか?

ここをしっかりと考察していく必要があります。

ザ・分析『2012年版』

さて、分析してみましょう。

不自然な照明

まず注目したいのは冒頭2012年版のシーンですが、一番最初にライトの位置が不自然なことに気がつくと思います。

0:50 廊下を歩いていく鬼塚英吉先生の正面窓から光が差し込んでいますが、この光量と光の伸び具合から鬼塚先生の右手側からのライトではなく、正面からの方向であることがわかります。

1:04 ところが、部屋に入ってみると、まるで(廊下のシーンからみて)右手側からライトが当たっているようなセッティングになっていることに気がつきます。

これは照明さんがミスしたわけでもないですし、光量を間違えたわけでもなく、これが今の時代の正解だと思います。

この辺りについては後述します。

まずはこのシーン全体でこの不自然さが人間の脳は錯覚し、「作り物」である認識をしてしまい、無意識にこの世界観に没入できないロックがかかっているような気がします。

繰り返しますがこれは照明さんがどうのこうのという話ではなく現代での撮影手法の一つであると思われます。

ストーリーが分離

1:19~20,21 役者がピックアップされてそれぞれのストーリーや思惑を想起させるカットになっています。

1:28~29,30 あたりも同様です。

これらの登場人物のストーリーと思惑がぶつ切りでつなげられているため1カットごとのクオリティが高いとはいえ、それぞれが1カットでストーリーが起承転結しているため、それぞれのカットが全体のストーリーとして繋がらないといえないでしょうか?

役者が棒読み

これは分析しても仕方ない点ではありますし、主演のAKIRAさんはWikipediaを見ても職業はダンサーとあるので、役者ではありません。

ここは言っても仕方ないですが、事実としてありますよね。

ザ・分析『1998年版』

続いて称賛の声の多い1998年版を考察してみましょう。

後ほどまとめていきたいと思いますが2012年版と比較しながら進めていきたいと思います。

照明の指向性が明確

さて、早速1998年版の冒頭ですが、 4:56 のシーンで分かる通り、照明の指向性がかなり明確です。

ここだけみても2012年版とはそもそもの照明の感覚の違いが表れています。

4:58 もちろん指向性がはっきりしているので影ができます。

影ができるのでカメラのレンズの後ろ側もストーリーが進んでいたこと、そして進み続けていることが明確に視聴者に伝わっています。

この時点でストーリーは少なくとも2つのタイムラインで動いているのがわかると思います。

様子を伺う生徒たちと背後から迫る何か(もちろん鬼塚先生ですが)

部屋への入室シーンでベッド部分の影もそうですし、 5:43 でもそうですが、どのシーンも照明の指向性はかなり明確に設定されています。

複数のストーリーが同時進行している

6:01~02,03 もそうですが、壁を破壊する鬼塚先生とそれを見ているその子特有のストーリーを抱えた生徒、そして関連する生徒、それぞれのストーリーが壁の破壊と同化されています。

斧を振り下ろす鬼塚先生の軌道と生徒たちとが同じ画面で進行していますよね。

そのため、「なんのために壁を破壊しているのか?」「誰のストーリーの中に壁を破壊する理由があるのか?」が交差して一つのストーリーとして進んでいくわけです。

6:18 もそうですが、2012年版だと、カットをそれぞれ分けていますので、ストーリーが分離してしまっていますが、1998年版ではこのアングルのお陰で壁の破壊と、そのストーリーの中でうごめく生徒の思惑や感情が完全に同化しているように感じます。

【作例あり】シークエンスがあるかどうか

シークエンスとはしばしば「連続性」などのニュアンスで写真や映像などで用いられる用語です。

筆者も撮影の現場で「状況を撮って」と指示を出す写真家さんの言葉を聞いたことがあります。

写真一枚の静止画にも状況がある。

これはもちろん芸術の話なので言葉にするのは難しいですが、無理矢理言葉にするとすると、一枚の写真から前後時間を動かした時に確実に前と後ろのフレームが想定できるカットと言えます。

例えばなんですが、これは筆者がオランダでお散歩写真を撮っていた時のものですが・・・

これはこのカットの前後の時間軸は想像することができます。

しかし、映像でいうところの前後せいぜい数フレーム程度でしょうか。

また、前面にあるストーリーを構成させられそうな車に全くといってシークエンスがなく世界が分離してしまっています。

きっと撮影した時には車に意識がいっていなかったのでしょう。

人物と車のシークエンスが交差する瞬間はきっとあったはずです。

シークエンスがないわけではないが、シークエンスの浅い写真であると言えます。

こちらはどうでしょうか?

前後のフレームが確実に存在しているのに加えて見る人の想像も膨らむフレームが想定できます。

このカットではかろうじでこの動物園、そしてこの象の状況を撮影していると言えないでしょうか?

かろうじで・・・ですよ(笑)

同じ条件での近い時間軸のカットがこちら。

たった数秒の違いだと思いますが、後者はシークエンスが全くない写真になっているかと思います。

ただ構図の中に象が写っている、目的もわからなければ何を撮りたいのかも謎・・・

全くもって意味不明な写真と言えます。

自分の写真なので必要以上にディスりまくりましょう!

自己分析と改善は大切です。

昔の作品にシークエンスがあるのは〇〇が関係している

筆者は在宅介護生活中ですのでその関係で古い時代劇が家では91歳の祖父が目を覚ましている間エンドレスで流れています。

スタジオジャーナル第3回 『過酷な介護』実は芸術家としての成長機会?!(サイト内記事)

古いと言ってももちろん1998年とかそんなレベルじゃないですよ。

1950年代〜60年代の黒澤映画や、三船敏郎などがバリバリの時代。

それこそ照明器具で役者が火傷して運ばれる・・・なんて時代です。

黒澤映画を見ていると気がつくことではありますが、カメラの構図に写っているシーンのその裏で常に世界は進行しているんですね。

世界の黒澤、黒澤の世界・・・なんて言葉もあるくらいですが、カメラが動いていくと実は別のエリアで別の物語が進行していた(マクロもミクロも含めて)なんてシーンがほとんどです。

仮にカメラワークで結局映らなかったエリアでも当然のように役者が演技をして、世界が構成されていたものと考えられます。

この辺りを参考にして自身の作品に取り入れたのがソビエト出身のアンドレイタルコフスキー監督。

知っておきたい偉大なる【映画監督 ランキング】(サイト内記事)

タルコフスキー監督は実際に、最も影響を受けた人物は「黒澤明」であると明言しています。

事実、タルコフスキー監督の作品はこのシークエンスを最大限重視し、サクリファイスの最後の家屋の炎上シーンはシークエンスを大切にするあまりNGが出た後、もう一度立て直して燃やしなおしたと言われています。

こちらがそのシーン。

連続性が非常に重要視されており、GTO 2012年版のような、カットを分離させて足していく手法は採用されていないのがわかります。

原作では音楽はついていません。
おそらくファンが後から好きな音楽と映像を合わせたものになります。
タルコフスキー監督の作品はBGMがないことで有名です。
音をミュートにして純粋に映像表現だけを参考にしてみてください。

なぜ昔の映画やドラマは面白い?!一応の結論

なので結局のところGTO1998年版もそうですが、鬼塚の視点、生徒の視点、両親の視点、冬月先生の視点、それぞれが同時に世界を構成していて、視聴者の視点という世界が入る余地が残されている、その入る余地に視聴者が新たな新参者の視点として没入することで世界に入り込むことができる→結果、映画やドラマは面白い。

となるのではいか?

と考察します。

もちろん黒澤監督の世界などは、この複合的なストーリー交差は顕著であり、リアリティーの追求も相まってまさに脳内VR状態と言えると思います。

この脳内VR感が世界の映像クリエーターの憧れを集め続けるポイントの一つなのかもしれません。

昔の作品は〇〇

さて、ここまで読んでこられた方もピンと来た方が多いかもしれません。

昔の撮影はテープなんです。

2012年版のGTOの収録は現代での手法と先述しましたが、まさにその通りであとから動画編集ソフトで繋ぎ合わせることが前提でなおかつ後からどんな編集にも持っていけるように一つのカットを「素材」として捉えているんですね。

なので2012年時点での現場のプロたちの正解としてはこの手法がベストだと思われます。

不自然な照明はもちろんあとから編集で監督から別のイメージに差し替えを迫られた際にいかようにも対応できるように。

1998年版のように、壁の破壊と生徒の思惑を想起させるカットを同時に収録しないのも編集ソフトで継ぎ接ぎするのが前提だからだと思います。

例えばタルコフスキー監督の最後の炎上シーンは、これはもう「素材」ではないですし、後からFINAL CUTで継ぎ接ぎできるはずもなく継ぎ接ぎも前提とされていません。

それが功を奏して結果写真や映像にとってもっとも大切なシークエンスを演出、守る収録手法になったと言えないでしょうか?

まとめ:懐古主義に陥らないように注意

素材として捉えるとどうしてもシークエンスは犠牲になります。

そして素材でいいじゃん・・・

と割り切って収録、録音していくのが癖になると、シークエンスを考察することも忘れてしまいます。

なので筆者の個人的なクリエイティブのトレーニングとしては、長回しで収録しよう・・・

音楽収録でも然り・・・

コーダから演奏して繋げるのと、最初からストーリーを作ってコーダに突入するのとではその音楽作品の持つシークエンスをどう取り扱うか?が非常に問題になってくることでしょうし、ここの折り合いが音楽系のクリエーターの妥協点を見つけるポイントにもなってくるかと思います。

とはいえ、2021年現在、時代は令和。

インスタのストーリーに黒澤映画が流れてきたとして最後まで視聴する人はいないでしょう。

時代にあったテンポ感、そして差し替えの潰しが効くライティングや秒数、時代にあったフィーリングはあるはずです。

テープ的な感覚での手法、シークエンスを何より大切にする手法は時代背景があってはじめて最大限効果が発揮されると言えます。

キースジャレットのケルンコンサートはあの時代だからブームになったのかもしれませんよね。

ということで本日は非常に大長編となってしまいましたが、この辺りでお別れとしたいと思います。

みなさんの参考になれば幸いです。

この記事を書いた人

こうたろう

元ピアニストでフォトグラファー&サウンドデザイナー
ミュージシャンだった父の音楽スタジオと、モデルだった母の仕事場であるフォトスタジオの現像ルームが子供時代の遊び場という恵まれた環境で育つ。
音楽大学を卒業後ピアニストとして活動を開始。
自身のピアノトリオで活動後北欧スウェーデンにてヨーテポリを拠点に活動するシンガーアーティストLindha Kallerdahlとセッションを重ね声帯とピアノによる即興哲学を研究。
その後単身ドイツ・ケルンへ渡独。
ドイツから帰国後ピアノソロ作品アルバムと共に同時リリース。
金田式電流伝送DC録音の第一人者である五島昭彦氏のスタジオ「タイムマシンレコード」にアシスタントとして弟子入りし、活動を開始。
独立後、音楽プロデューサーとして音楽レーベル「芸術工房Pinocoa(現在はKotaro Studioに統合)」を立ち上げ、タンゴやクラシックを中心としたアコースティック音楽作品を多数プロデュース。
現在は元ピアニストの経験を生かしたミュージシャンのライブフォトを得意としながら、肖像写真、動物写真、自然写真を中心にミュージックビデオの制作などオーディオ技術も得意とするフォトグラファーとして活動中。